自我から意識へ 2 / 自我

○自我


「私」である自我は思考であり心であり記憶。自我は無心にはなれない。


 思考に振り回されないためには、自我について知ることが必要。


 思考には2種類ある。一つは無意識に突発的に浮かぶ思考。もう一つは計画など意図的にする思考。前者は過去の記憶や未来への予測から来る不安、怒り、後悔、劣等感、欲望などで、すぐに消える思考もあれば、脳内を強く占拠してとどまる思考もある。後者は必要な時に用いる。


 思考の大部分は、過去の記憶が再上映されるもの。


 人間として生まれてくるということは、誰もが自我を持っている。無意識の思考は過去の記憶が引き金となる。思考の後には言動があり、これらが個性や性格となる。失敗ばかりが多い過去だと劣等感が強くなり、自信もなく積極性が失われ、成功が多いと前向きで積極的な考えになるなど。こういう理由で人間は同じ行動を繰り返し、同じ問題も起こす。


「私」という自我は過去の記憶→無意識で突発的な思考→感情→言動→性格→人生経験と繰り返す。この人生の繰り返しが終わるのが、無心となり意識的に思考を客観視するように習慣化された時。


「あなたは誰ですか」と尋ねれば、私の名前は◯◯◯◯で、日本人の女性です、仕事は営業をしています、大卒です、忍耐力があります、怒りっぽいです、よく笑います、足は遅いです、昔はテニスをしてました、趣味は登山です、などの答えが返ってくる。これらは「私」の過去の記憶や経験を述べたもので、自我を説明している。これは本当の自分ではなく思考であり、人間の根源的姿である意識のことではない。


 自我とは、思考であり、心のことであり、欲望で、私という主張が強く、自分優先的で、陰湿で、ドロっとして、粘り気があり、しつこくて、恨みがましく、嫌悪し、独裁的で、自己中心的で、醜(みにく)くて、下品で、厚かましく、頑固で、ずるく、恥知らずで、嘘つきで、無責任で、逃げ隠れし、足るを知らず、強欲で、傲慢で、人から奪い取り、損得勘定で、分け合わず、不公平で、不誠実で、うぬぼれ屋で、優越感を持ち、被害妄想が強く、依存症で、期待し、失望し、暗くて、不幸で、苦しみで、黒くて、疑い深く、凶悪で、残虐で、攻撃的で、威圧的で、脅迫し、押し付け、暴力的で、荒々しくて、意地悪で、いじめ体質で、浮き沈みが激しくて、うるさくて、落ち着きがなく、退屈が嫌いで、不安定で、散らかっていて、汚くて、混乱していて、無秩序で、排他的で、拒絶し、二極化で、派閥主義で、差別的で、束縛し、器が小さく、劣等感が強く、人見知りで、卑屈で、見栄っ張りで、プライドが高く、負けず嫌いで、目立ちたがりで、恥ずかしがり屋で、承認欲求が強く、自分を大きく見せ、恐れていて、みじめで、寂しくて、悲しみで、絶望で、挫折で、愛情がなく、快楽主義で、中毒症で、繊細で、傷つきやすく、あらゆる負の側面を含む。

 また自我の喜びは「私」に関係するもの。私の利益、刺激、快楽、性的快楽、所有、獲得、他人の衰退、称賛、注目、喝采、他者からの承認、尊敬、感謝、食欲、飲欲、安心感、達成感、成功体験、競争に勝つ、優位、支配感、所属、誇り、自由、成長など。

 こうして思考し、判断し、学習し、成長もしながら、自我は喜びと苦しみを行ったり来たりする。


 誰でも自我がある。それが重いか軽いかの差。


 人間は意識という愛情を根底に持っていながら、自我の雲がその表面を覆い尽くしている。自我の雲が薄くなるにつれ、人は愛情ある言動が多くなる。


 自我への囚われが強い人ほど、性格が悪くなる。囚われが薄い人ほど、性格が良くなる。


 意識と自我について無知であると、問題と苦しみが生まれ続ける。


 自我が喜びを求めるが苦しみもする。苦しみがあるため改善策を考える。その繰り返しが成長を促す。やがて喜びと苦しみは表裏一体であることに気づく。この成長の先にあるものは、無心という中間地点の穏やかさ。

 仕事をしても、大金を手にしても、名声を手にしても、解決しそうにない人生の根本的な虚しさに襲われた時は、無心を維持することでしか解決しない。

 無心にならず、不安、虚しさ、じっとしていられない気持ちを直視しないようにその場しのぎで他のことをすることは、問題の先送りをしているだけ。老いと共にその時はやって来てしまう。


 自分がいつも無意識に起こる思考に苦しんでいると気づくことで、自我から距離をとることができる。


 自我への囚われが強いほど、人生の苦しみが強く多くなる。


 自我に囚われると愚かな行為が増える。人が愚かに見える時は、自分のことだけ考えて行動している時。勉強ができる人でも愚かということがあり、勉強ができなくても清く正しいという人もいる。


 欲望で行動する人は最終的に自滅する。


 欲によって築き、欲によって潰す。


 プライドが高いと、その鼻をへし折られる時がやって来る。プライドも「私」という自我。人生はいつかどこかで恥をかくようになっている。


 欲が強い人ほど大きな痛みを経験して悪い習慣に気づく。欲が少ない人は小さな痛みで気づく。


 人は自我があるため苦労を感じる。ただ苦労は奥深い人間性へと成長させるきっかけ。


 自我があると深い悲しみを経験するが、それは他者への思いやりを育む。


 自我があると挫折も絶望もする。人は絶望すると死の扉が目の前に見え、死ぬか耐えるかの選択に毎日迫られる。


 絶望した時に見える景色がある。延々と続く灰色の雲、崖の淵に立つ自分、毒の沼に浸かっている自分、一人だけ深い穴に転げ落ちていく様子など。その時は一生治らないのではないかとも感じる。


 絶望した時、そのことを話せる友人は少ない。絶望は絶望を経験した人としか共感し合えない。人は本当に苦しくなると人に話さない。


 物事がうまく行っている時は自信もつき、やればできるという気分になる。誰かにするアドバイスも前向きになる。ただその波に乗れなくなった時、自我はいとも簡単に自信を失う。自信に依存した行動はもろい。自信のあるなしに囚われない平常心は、無心からやってくる。


 人生で起こる出来事は、良いも悪いもなく中性のもの。それに意味をつけるのが思考で、過去の記憶が決める。


 自我は敵や味方を分けるが、意識にそういった区別はない。


 意識として在る時、思考はないので前向きも後ろ向きもない。前向きに見える行動も、裏には恐れや不安が隠れていることがある。意識として行動する時、恐れや不安に囚われない。


 自我は体より外側ばかりを見ているため、他人の言動はよく見ている。しかし自分の内面のことは見ていない。だから失敗しても他人のせいだと考える。よって学びと成長がない。無心になるとは内面を見ていること。自我への囚われが薄い人ほど、自分に原因があるのではないかと考える。つまり自分をよく見て反省し、学び、成長する。


 抵抗は自我の反応の一つ。


 人の性格を変えようとすると相手はそれを察する。すると相手の自我が負けまいと抵抗して頑固になる。


 自我に囚われていると自分中心になり、誰かに迷惑をかけて注意されても自分が被害者と考え、非を認めない。よって相手の自我と戦っても意味がなく、ひたすら逃げるのが相手の自我。


 自我は負けず嫌いで、なんとしてでも負けを認めず勝とうとする。


 誰が見ても残虐でひどいとされることを自我は行う。そして自我の強い者はそれを正当化する。

 自我にとって正義はどうでもいい。自分が勝ち、得すれば良い。


 自我の強い者は自己主張が強く、話し合っても話にならない。自分が被害者である、相手が悪いという視点で話をするため、公平で客観的な視点を欠いている。

 暴言・いじめ・パワハラ・ストーカー・暴力・性的暴行・虐待・殺人なども、自我があるため行われる。自我が強くなるほど精神異常者としての行動を見せる様になる。


 自我が強い者も「愛している」「あなたのため」「平和のため」「正義のため」「国民のため」「神のため」という言葉を使う。ただこの根底には「自分が正しい」「他者から認められたい」「他人より上に立ちたい」「自分が中心にいたい」という歪んだ欲望が根底にあるため、自分が攻撃されたり、損なわれたり、裏切られたりすると、愛や正義は一瞬で激しい怒りに変化する。そして相手を従わせ、排除しようとする。こういったことは個人から国という段階にまで見られる。自我は相手が自分に従順な間は機嫌がよく、反抗を示されると支配や抑圧しようとする。この落差が愛や正義や平和を語る自我の本音である。


 意識は直感や出来事を通じて人間や世界に働きかける。その働きは調和。その意識の中で、そんな働きがあることを知らずに、小さな範囲で獲得を求めるのが自我による欲望。その欲望が、それをも含む無限に広がる意識に対抗しても、勝ることはできない。


 人間の器が大きいというのはどれだけ自我に囚われず無心となり、他者への愛情を持っているか。器が小さいとは、他者を排除し「私」を優先する自我の強さ。


 人から意見されて腹が立つのは、傷つけられた、自分を守りたいという自我の防衛本能。時にそれは器が小さいと言われる。感情的になる時は自分の自我に気づけ、自分が何にこだわっているのか見えやすい。意識として在る時は、批判されても感情を受け流せる。


「私」が傷つくこと、それは自我が恐れること。


 自我に囚われていると、人の忠告を受け入れることは負けだと考える。自我が薄まると、忠告はありがたいと考えるようになる。


 スポーツなど勝ち負けの世界で10代を育つと、大人になっても勝ち負けで人と接するクセが残る。ちょっとした話でも相手より勝ろうとする。それは付き合いにくくわずらわしい。そして本人はそのクセに気づいていない。


 自我はいつも誰か攻撃する対象を作る。そして自分は相手よりマシだという優越感にひたり、相手が失脚するのを期待している。職場でも学校でも。


 自我は自分より大きなモノやたくさんのモノを目にすると、劣等感を感じる。逆に自分より小さいモノや少ないモノを目にすると優越感を感じる。


 自我を理解し心を静かにしていると、他人の自我もよく見えてくる。


 自我を知るほど、他者の言動の理由も見えてくる。


 自我への囚われが強い者同士、囚われが薄い者同士、意識としてある者同志など、それぞれの言動パターンは似てくる。自我への囚われ度が近い者同士の付き合いが、それぞれ心地よいものとなり、友人などとして集まってくる。ただ自我が強いと争いが増え、自我が薄いと調和する。


 自我が強いと不誠実になる。不誠実な人はどんな綺麗な言葉を発しても、やがて自分の言動で本心がばれてしまう。言っていることとやっていることが食い違う。人として薄っぺらいと言われることもある。


 自我は普通の出来事であっても、少し大きく脚色して相手に伝える。


 思考はいつも物事の優劣、上下、善悪を判断する。子供はその傾向が薄いが、大人になるにつれて強くなる。


 自我は接する人によって態度を変える。自我が強いほど人間関係を上下で見る傾向が強い。目上には媚びて声のトーンも高くなり、目下には威張り声も低くなる。そのタイプ同士は居心地が良いので、よく似たタイプが集まってくる。このタイプがリーダーになると、周囲もそういうタイプが集まってくる。そして組織の風土もそうなる。


 自我が強い人が親分になると、親分は子分に威圧的に接し、子分は親分に意見できず従順に従う。その子分も下の子分には威圧的に接し、下の子分は上の子分に意見できず従順に従う。この繰り返し。幸せと苦しみが表裏一体なように、サディズムとマゾヒズムも表裏一体で自我の性質。


 自我は相手の権威や実力など、大きく強そうに見えるものに弱い。自分が勝てない相手には萎縮し、イエスマンになる。反対に自我は優しいだけのリーダーを扱いやすいと感じ、下に見る傾向がある。自我が強い人と付き合っていくために、リーダーは誠実だけではなく実力がいる。


 盲目的にリーダーの言うことを聞いたりリーダーに恐怖を感じるスタッフは、リーダーが誰かを雑に扱うと同じ態度をとりがちになる。反対にリーダーが誰かに尊敬を持って接すると、それも従う傾向にある。これは自信のなさ、恐れ、自己保身など自我から来る従順な行動。自我への囚われが薄い人は、リーダーが誰にどんな扱いをしようとも誰にでも愛情を持って接する。その人は恐れに囚われていないため。


 弱々しい態度や自己主張できないことは、自我が薄いということではない。それらの裏には自信のなさや、嫌われたくないという自己保身、頑固さなどが隠れている。無心であると、これらに囚われない普通の態度となる。


 自我は成功した人が手の届く範囲にいると妬み、手の届かない範囲にいると崇める。


 自我は目の前で誰かが得しそうにしてると邪魔したくなる。


 大小の成功をすると、必ずどこかで誰かに妬まれる。もっと欲しいという自我を克服できていない社会では、誰もが不足感を感じている。よって好きなことをしていない人やうまくいっていない人にとっては、好きなことをしている人の話はまぶしく自慢話に聞こえることがある。


 自我は損得を考えるため相手の前では笑顔で話し、その人がいなくなったら悪態をつく。こういうことを知らなければ人間不信になることもあるが、自我はこういう付き合いが普通なので気にしない方がよい。


 人間が争うのは自我があるため。


 人間嫌いの人は相手そのものではなく、相手の「私」という自我の言動を嫌っている。だから子供や動物は好きだったりする。思考力が発達していないものは邪気がない。思考力が発達していても自我が薄い人もいる。


 人見知りも自我。相手と何を喋っていいかわからない、相手にどう思われるか気になる、などはすべて思考。無心になるとそういう考えは浮かばず、積極的に話しかけることも消極的になることもなく、普通に話したり黙っていたりする。


 会話が止まった時の沈黙に耐えられないというのは不安であり思考。無心になると気にする思考がない。


 劣等感が強いとその反動で大きく見せたい、偉くなりたい、そう思われたいという動機から、何かを作り出す力が生まれることがある。事業を始めたり、権力や肩書きを求めたり、派手になるなど。


 劣等感や妬みが強い人は普段の会話で相手に恥をかかせたり、気にしていることをあえて指摘することがある。すると自分が優位に立ったように感じる。その場は勝ったように錯覚しているが、長い目で見ると嫌われる。性格が悪ければ良好な人間関係も維持しづらく、どこへ行っても同じような人間関係が生まれる。


 自我は自分自身に気になる部分があると、接した相手にも同じ場所を見る。自分と比較し、その優劣で自分を安心させたり、不安になったり、優越感にもひたる。体、持ち物、能力などで。自我は不完全な「私」に不安を感じる。無心には不完全な「私」というものがないので不安がない。

 不安や心配は一時的な心の暴走。


 相手の劣等感や妬みなどの自我を指摘すると、相手が気づいて改善されることもあるが、逆恨みされることもある。それは関係性と状況による。


 自我が強いと恨みや怒りが多い。特に自分が損させられたときは。


 強烈な怒りや恐れに直面したら、腹部などに反応が出ることがある。ストレスで胃が痛いというような。感情はストレスホルモンを分泌し、体にその影響が残るため、無心になってもすぐには消えない。そうなれば集中力と忍耐が必要。怒っている自我を直視することが、怒りから離れるうえで効果的。怒りが長期に続くと病気につながる。


 自我は他人の噂話や陰口を言う。大体その時は、自分に都合の良いように話を少し変え、相手を少しおとしめる言い方をする。そして聞く側は、その一次情報だけを聞いて話の全体像だと思ってしまうことがある。両者の言い分を聞かなければ公平ではない。ただ噂の本人が自我への囚われの薄い人の場合、言い訳も批判もせず事実だけを説明し、陰口を広めた相手と同じ土俵にのらない傾向にある。穏やかで清らかな人にとって、陰湿で下品な行為は選択肢にない。


 あちこちで誰かの悪評を広める人は自我に振り回されている。よって自分を良く見せたり、誰かが落ちぶれることを期待している。よって真実を歪めて話す。自我の薄い人はそもそも人の陰口を言わず、悪評を広めることもしない。


 いつも陰口をいう人は能力が低いことが多く、そのため自分に自信がない。だから陰口で他者の評価を下げて自分が優位に立ったと感じたい。

 自我が強いと保身も強くなり、自分のミスも他人のせいにしがち。「私」の評価が下がることを恐れるため。


 誰かの陰口を言うと、それを聞いている人の中には「私のこともどこかで悪く言ってるんじゃないか」と思う人がいる。すると陰口好きに本音を言わなくなり、性格の良い人は距離をとり始める。


 誰かに非難された時、言い返したり言い訳したくなる。そんな時も忍耐強く黙っていると、自我に振り回されない訓練になる。


 自我は自分の非が誰かに明るみにされそうな時、怒り出しやすい。負けを認めない自我の抵抗。


 小言の多い人が円満な関係を築けることは少ない。家庭でも職場でも。


 人間は自我が薄まるほど自立する。よって相手への依存度がなくなってくる。ただ誰もが自我を持っているため依存心があり、人間関係に疲れてくる。そのため距離を考える必要がある。数ヶ月に1回しか会わないからうまくいく人間関係がある。毎日会ってるほうがうまくいく関係もある。毎日会ったとしても、1日2時間だけならうまくいく関係もあり、8時間になるとストレスになる関係もある。恋人とでも何日も一緒にいると、1人になりたくなる時がある。相手との相性によって会う頻度を考えた方が、人間関係の問題は減る。それは家族であっても、恋人や友人であっても。


 意識として在るというのは、自立するということ。他者への依存心も思考からやってくる。寂しいから誰かと一緒にいたいや、同じ人にいつも助けを求めるなど。


 依存度が高い関係ほど悪化しやすくなる。仕事でも人間関係でも国家でも。


 人間は自分で人生を選択しているようで、実は過去の記憶に影響を受けた言動を無意識に繰り返している。よく浮気をされる女性は浮気しそうな男性をいつも選ぶ。借金をする男性は何回も借金する状況に陥る。


 いじめをする人には共通点がある。それは「私」という自我が強い人。いじめをするほど自我に囚われている人は、暴力など攻撃的な行動をすることが多い。自分しか見えていないため、他人の痛みへの共感能力が低い。


 自我が強い人ほど人の好き嫌いも強くなるため、組織の中では仲間はずれや分裂を引き起こす原因になる。


 性格の悪い人は自分が嫌な性格だと気づいているが、なかなか自分を変えられない。それは日々無意識に起こる思考に、振り回されていることに気づいていないため。


 自我は無視や絶交という極端に冷たい行動をとるが、反対に一度受け入れた相手には義理堅いという反対の面もある。意識はそのどちらにも囚われず、相手がどういう態度でも同じ愛情を示す。


 突発的な思考によって言動が起こる。もしその内容が暴言や暴力であれば、接する相手にとっては辛いものとなる。この行動も過去の記憶が引き金となっている。それに気づかなければ、相手を傷つける行為も治らない。強烈な心の傷は、強烈な突発的思考によって簡単に心を占拠し、ネガティブな行動を起こさせる。


 幼少期に親など周囲の愛情に恵まれなかったり差別や虐待を受けた子供は、やがて不良行為や反社会的行為を行い、周囲へ迷惑をかけることがある。本人は心の底に寂しさを抱えていて、誰かにかまって欲しくて迷惑行為をし、人の注意を引こうとする。例えば心の寂しさを埋めるため騒音を出し、誰かの気を引こうとする車やバイクでの暴走行為のような。そういった行動も過去の記憶が無意識の突発的な思考としてやってきて、その人の言動を決めている。迷惑行為が多いと周囲の恨みを買い、それにさらに反抗してと悪循環に陥る。これについても、無心になることは解決につながる。意識として在り、注意深く思考を観察し、過去の記憶が自動再生された時にはそれが一時的なものであると認識して、再び無心に戻る、ということを習慣化する。あとは本当に習慣化しようという本気の決意がいる。


 自分を雑に扱う人は、他人からも雑に扱われる。自分を大事にしている人は、他人からも大事にされる。


 普段から自信なさげにしていると、誰かからの指図や攻撃が増える。自我はいつも誰か攻撃する対象を探していて、自信なさげな人を雰囲気で感じとる。それはちょうどよい標的。結果を出さなければならない仕事やスポーツでは、自信なさげにしていると仲間から責められる。


 普通の日常では誰もが普通の言動で過ごしている。ところがある瞬間、思考が突発的に起こり、その人の過去の記憶が自動再生され、急に冷たい態度、攻撃的な態度や気分屋になったりする。やがてそれがおさまり普通に戻る。これが頻繁に起こると付き合う側は疲れる。


 お酒を飲んで酔っ払うと、過去の記憶が自動再生されやすくなる。それにより酒乱や愚痴っぽくなったり、普段は表に出さない性欲が出てくる。すべて突発的な思考。


 誰にでも自分で気づいていない思いグセがあり、突発的な思考は心の深い場所に刻まれていることがある。それは劣等感、トラウマ、妬み、恨み、自分の得だけを考えるなど。それに気づいていないとその行動は誰かに迷惑をかけ、評判も悪くなり、攻撃もされる。まず1日3分でも目をつぶって静かに座り、心に意識を向けることから始めてみる。すると色んな感情が起こってくるが、その一つ一つを観察し、それに振り回されていた自分に気づくことが第一歩。繰り返していけば、感情が起こるたびに気づくクセがつく。気づくとその瞬間思考が止まり、振り回されなくなる。そうして足を引っ張る思いグセは消えていく。


 思考にいつも気をつけていないと振り回される。初期はいつも気をつけることを面倒に感じるが、習慣化してくれば無心の方が楽になる。


 無心がクセづいてきて、穏やかな心が維持されたとする。ただそれは一時的な心配事の不在かもしれない。やがて何かの危機に直面すると、心を悩ませることがある。


 人間が自我に振り回されている間は、他者への攻撃を根絶するのは難しい。「私」というものがある限り自分を優先して守り、評価を高めようとする。自我が嫌な思いをすれば、相手への攻撃が始まる。攻撃の受け取り方によって、それがイジメかどうかが分かれる。イジメがよくないと広めることは良いが、自我への囚われが強い者にとってモラルは表面上の話に過ぎず、現場では自分が相手に勝つことを考える。いじめは中長期的に同じ場所で一緒にいなければいけない時に起こりやすい。そういったことを回避する環境を作った方が、イジメを回避できる。単発的な嫌がらせであれば、あの人には近づかないでおこうという教訓的な出来事になる。


 自我が薄まるほど、本気で相手を負かしたいという気持ちや競争心もなくなってくる。勝たなければ意味がない、勝つ必要がある、と考えるのも執着であり自我。それが苦しみにもなる。


 競争をしているように見えても、そこに勝ち負けにこだわる思考がなければ、じゃれ合いや楽しみ、適度な運動があるだけ。勝ち負けにこだわり始めると、苦しみと優越感という自我が生まれる。


 絶頂期を迎えるということは、やがてそれが去った後の苦しみに直面するということ。もし執着するなら。


 毎日無心にならなければならないも一つの執着。形に囚われずリラックスしてただ無心になる。


 執着しないことに執着すると本末転倒。


 無心が習慣化されても、瞬間的に恐れや苦しみの突発的な思考は起こる。しかし習慣化されているとその思考にすぐ気づき、ただ消えていくのを観察するようになる。


 世に出始めた新しいことは批判が起こる。携帯電話もパソコンもインターネットも。批判の裏には恐れや不安、拒絶、過去への執着という思考がある。


 物質的なものを追うことに良い悪いはなく、存分に得れば、それが自分を本質的な意味で幸せにしてくれるものではないことに気づける。


 人はストレスがかかった時、自分について、原因について考え始める。すると自分の至らないところを直そうとしたり賢くなったりする。苦しみはさけたくなるが、正面から向き合えば成長につながる。


 自我があるかぎり誰もが何かで苦しんでいると知っていると、相手への共感の気持ちと思いやりの心が芽生えてくる。それは一時的に起こる妬みや怒りの感情を抑える助けになる。


 カップルが意識として在ることを知らなければ、「私」を優先する自我が相手にあれやこれやを期待し始める。相手が期待に応えてくれなければ失望に変わる。自我が強いもの同士は期待も大きくなり、相手への不満も大きくなる。期待も失望も思考。自我の薄いもの同士は、相手への期待よりも思いやりが大きくなる。


 自我は何に対しても「私」の喜びを考えて期待する。そして失望もする。


 自我は静かにじっとしていることができない。何もすることがないと不安になる。だからいつも何かを考えて動きたがる。何かしなければならないと考える。


 自我は退屈や寂しさに耐えられず、誰かに連絡したり、友達に会ったりして気持ちを紛らわせる。これらの感情も思考から来るもので、無心になると消えていく。


 もし突然体調を崩して入院すれば、不安な気持ちになる。そんな時に無心に取り組むと、頭の中が恐れという思考に占拠されていることに気づける。無心になれば恐れを客観的に見れる。楽しい気分にはなれないが、良い訓練になる。


 意識は思考がなくても在り続けるが、思考は意識がないと働かない。


 何かを得る喜びは一時的。自我が強いほど、どれだけ得ても満足することはない。


 思考力は道具。携帯電話と同じで使いこなせば便利だが、依存すれば振り回され中毒となる。


 アルコール中毒、薬物依存症、ゲーム中毒などの中毒症も、過去の心地良かった、気持ちよかった、楽しかった記憶が無意識な思考として心を占拠し、その人の言動を支配する。だから何度も同じ行動を繰り返す。突発的な思考に無意識ということ。


 お金の社会では自我の喜ぶものが売れる。刺激的なもの、中毒性のある物、スキャンダル。薄味よりも濃い味、甘い味。静かな人より喋り上手や面白い人。自然の風景よりもエンターテイメント、映画、ゲーム、格闘技、スポーツ。すべて五感を刺激し、それによって退屈しない。いつも何かを求める自我は喜ぶ。静かで動きがないものを自我は嫌う。ただうるさい場所で疲れた後、静かな所に出て穏やかさを感じることがある。それが意識として在る状態の心地よさ。


 自我は常に何か刺激を求める。それに慣れていると無心になることは退屈に感じる。そうなると無心への真剣味は下がり、3日後には忘れている。無心の習慣化は本気の決意と長期の継続がいる。


 何かを見て記憶に残ると、ふとした時にそれを思い出す。それがわかりやすかったり、覚えやすいものであったり、中毒性のあるものならなおさら。それをいつも見ていると、親近感をおぼえる。突発的な思考に無意識であると、その思考に身体が反応する。すると物を買ったり、そこへ行ったりと行為をする。広告宣伝がわかりやすい例。


 自我は競争で勝って利益を得るため、科学技術を発達させる。しかし科学が発達しても、人間の無心への取り組みが発達しなければ自滅する。


 人は死を恐れて苦しむが、死がなかったとしても老いに苦しむ。


 物質はいつか必ず崩壊する。家も植物も体も太陽も。この世界で永遠と続くものは意識だけ。


 葉は始めは水々しくて柔らかく、やがて干からびて硬くなり散る。人間の体も若い時は水々しくて柔らかく、歳を取ると固くなって水気もなくなり、最後に死ぬ。心も素直で柔軟で前向きな人は自我の影響が薄く、強情で聞く耳を持たず固定観念に縛られた人は自我の影響が強い。年老いても心の若い人はおり、若くてすでに老いたような人もいる。


 世の中を観察すると傾向が見えてくる。例えば世のため人のためを思って行動すれば、その人は誰かから喜ばれ感謝される。反対に自己中心的な考えで行動すれば他人から嫌われる。人にプレゼントすればお返しをもらえ、人を殴れば殴り返されたり逮捕されたりする。つまり思考が前向きか後ろ向きかで、その後に起きる現象もそれに応じたものとなって返ってくる。


 思考は良い思いで使えば良い結果が返ってくる。悪い思いで使えば悪い結果が返ってくる。

 

 疲れている時、イラだっている時は何かしら問題が起こる。後ろ向きな思考は後ろ向きな出来事を生む。


 自我の視点で見れば「私」の人生。意識として在ると、「私」も「私の人生」もない。唯一である意識は「私」の誕生前からあり、誕生後もあり、死んだ後もある。意識として在るとき、生死を超越する。


 自我がある限り問題と苦しみが生じる。その苦しみは自我に気づかせるきっかけで、敵ではない。攻撃、妬み、恨み、劣等感、執着心などの感情は苦しみを生み出すが、その出来事は自我に気づくためのきっかけ。過去に克服できていない感情があれば、それを克服するための出来事が起こる。


 自分が自我に囚われていたことに気づくと、人間の歴史は自我に囚われてきた歴史ということが見えてくる。


コメントを投稿

0 コメント