○組織とリーダー
誠実な人が多くなるほど組織の動きは調和し、友好的で雰囲気も良くなる。誠実とは自我への囚われの薄い人、もしくは意識として在る人が見せる性質。反対に自我の強い人が組織に多くなると非協力的になり、動きは調和せず、不正と不和も増える。
人々は争いや戦争を好まない。もし争いになれば、自我は相手に勝って自分たちは無事でありたいと考える。相手も同じことを考えている。だから争いそのものが起こらない方が良い。そのためには内面に争いがない人物をリーダーに選ぶ必要がある。それもあらゆる場所、段階で。そうでなければ自我の強いリーダーが現れ、自分たちの無事を優先して争いを始める。それは周囲への不安を生み出し、武装する人々が増え、緊張が高まり、争いが大きくなる。この悪循環を世界中の人が知ることが、良いリーダー選出の第一歩となる。
国民は軍隊や警察を自国と自国民を守る組織だと考える。しかしその国のリーダーが独裁者のように自我への囚われの強い人物の場合、軍隊や警察は国民に脅威を与える存在になる。例えば政策に逆らえば逮捕したり銃撃したりと。つまり自分たちを守るための組織は、自分たちを脅かす存在にもなる。
独裁者は自我が強い。そのため不正が多くなり、透明性を欠き、国民は苦しむ結果となる。
自我が強い独裁者がリーダーになると自分の得のために動き、人民の意見は無視する。意識として在る者がリーダーになると全体の善のために動き、人民の意見を尊重する。それ以外のリーダーは、この間に位置する。
自我の強い人は、自分に対して従順な人を優遇し、反抗的な人に対しては冷遇する。これが組織のリーダーという立場の場合、扱いが不平等な組織になる。
自我が強い者がリーダーになると、なんとしてでも自分の立場を存続しようとする。するといつまで経っても引退せず、法律を変えてでも権力の座に居座ろうとする。これが独裁者であると恐怖政治が行われ、人々は軍隊によって攻撃され、逆らえなくなる。人々は慎重にリーダーを選ばなければならない。
自我が強くなるほど「私」という考えが強くなり、自分中心の考え方になる。物を一つ伝えるのにも相手への配慮が欠けてくる傾向にある。それは感受性にかけるということでもあり、相手の気持ちを察しづらくなる。この感受性が低い人では、組織の良い仕組みを作るのが難しくなってくる。仕組み自体は誰でも作れるが、その質に差がでる。感受性が低いためにどのような仕組みにすれば相手が心地よく動いてくれるのかを感じる能力が低くなり、細かい部分でメンバーがどう感じるのかを見抜く力が弱く、穴が多く不満の多い仕組みが作られる。そうして自我が強い人は周囲が納得してくれるラインを見つけられず、結果的に立場上の優位を利用した強制的に動かす方法に落ち着く。またリーダーの自分が上、メンバーは下という意識も強くなるので強制感も強くなり、お願いではなく指示や命令という意味合いが強くなる。一部の従順な人々には受け入れられるが、公平性を重視する人々や有能で無意味な部分をすぐ見抜ける人など反対派も増えるやり方となる。 そして問題は続き、仮にその仕組みに穴があってメンバーが不満を漏らし始めても、それを聞き入れる柔軟性にかける。上位の自分は正しく下位のメンバーが間違ってるという目線かもしれないし、自分が作った仕組みを修正するというのは自分が間違っていた、劣っていた、負けたという認識につながり、自我がそれを受け入れないという場合もある。頑固さは自我の性質でもあり、素直さや柔軟性がない。そうして指示が一方的でメンバーの意見が反映されず、メンバーにとって不満の多い組織となる。
反対に誠実な人の場合、感受性も高まるので細かな部分の配慮ができるようになる。この時はメンバーはこう感じるだろうからこうしておこうと感じる能力が高く、配慮の行き届いた仕組みを作る傾向にある。また誠実さがあるため普段から周囲の信頼も高いので、無理に強制しなくてもメンバーは協力的に仕組みを理解してくれる。また高圧的な物の言い方をしないため衝突が少なく、周囲も受け入れやすくなる。
自我が強い → 自分が中心 → 感受性低下 → 質の低い仕組み → 強制的になる → 柔軟性低下 → 周囲の意見を受け入れられない → 仕組みが修正されない流れとなる。これが強いほど独裁的な組織へと向かう。誠実な人はこの逆の傾向にある。
自我が強い人には、そもそも誠実性という視点がない。そのため人を動かす際に、脅しや命令、押さえつけて従わせるという方法しか見えない傾向にある。場合によっては誠実性の重要性を認識している人もいる。そのため頑張って言葉や行動で誠実性をアピールするが、結局はどこか背後にある不誠実性を感じ取られ信用されない。
独裁者は自分と政府の批判を禁止する法令を国民に出す。「私」を守ろうとする自我の行動。
自我が強い強欲なリーダーは、嘘つき、泥棒、詐欺師という言葉が当てはまる。
自我の強い者は周囲に敵が増えて自分の立場が不利になってきても、まだ強気の姿勢を崩さない。それまで強気の立場で周囲を怖気つかせてきた方法を繰り返す。また自我にとって怯(ひる)むことは負けを意味する。それでも突き進みいよいよ立場が危うくなってきた時、相手へ譲歩するか逃げることが多い。
国という大きな単位でも、仲間内の小さなグループでも、自我の強い者は恐怖によって人々を支配する。
自我の強い者は相手になめられたくないと思い、高圧的に接する。特に組織のリーダーの場合、誠実性で信頼を得るということを知らないので、立場的優位を使って威圧的に組織をまとめようとする。ただそれは一部の弱者にだけしか通用しない方法。
自我が強い者は疑り深く、被害者意識が強くて攻撃的。また自我は自分が傷つくことを恐れるため、自我の強いリーダーは自分へ反抗する者がいないかどうかいつも恐れている。そのためいかに人々を監視するか方法を考え始める。そして人々は自由に発言できる雰囲気を失い、暮らしも窮屈になる。やがて政府は法律も変え、政府へ反対意見を言う者は逮捕される。
国のような大きな組織から地元の小さな組織まで、自我の強い人物がリーダーになると、組織の状況が悪化してメンバーに非難されても、簡単に権力の座を渡そうとはしない。その後批判が高まりデモが起こり始めると、身の危険を感じて逃亡する。それは国外かもしれないし、身近な隠れ場所かもしれない。それでも権力の座は保持したまま逃亡する。
我欲の強いリーダーが不正を行い、それで組織の状況が悪化したとする。すると組織の中からそれを正そうとする者が現れる。しかしこのリーダーはその現れた人物を自分を失脚させる脅威と見なし、解雇しようとする。
自我の強いリーダーは平気で嘘をつく。周囲の者に将来への期待をもたせるような発言をして、結局それを行わない。例えば自分は権力には興味がないと言いつつ、立場を変えてでも影響力を保持しようとしたり、あれこれの改革するなどと約束するが、見せかけだけの改革に終わるなど。つまりその場しのぎの嘘を言う。
自我の強いリーダーの中には話術に優れた者がいる。そして自我が強いということは恐れも強く、周囲の反対意見を敏感に察知する。そのため抵抗が起こりそうになると、すぐさまその場しのぎの嘘で巧みにその場を収めようとする。もし周囲の者が自分で考える能力や分析力が低かった場合、その嘘によって言いくるめられる。
自我が強い者がリーダーになると、その家族や息子に権力を譲ったり、特別な役職においたりする。そうして同じ家系による支配が代々続いていき、国民が苦しむ。
仕事ができる、頭が良い、積極的に動ける、声が大きく強そう、口が達者、目立つ、怒らせたら怖そう、服装や見た目が立派、威厳がある、などの性質を持つ人がいる。組織の中では自然とリーダーに選ばれることもある。ただこれらの要素の前に、その人に誠実さがあるかどうかを見なければならない。それによってリーダーの決定が全員のために良いものなのか、一部の人にとって良いのかが決まる。誠実で頭が良いリーダーが目の前の富を分配する時、様々なことを考慮して全体の善を前提に公平な分配を目指す。頭は良いが不誠実なリーダーが分配すれば、自分とその近しい人だけがいかに得できるかで分配する。誠実なリーダーが叱る時は、相手の成長を思って叱る。不誠実なリーダーが叱る時は、自分の言う通りにしなかったことへの仕返しとしてや、今後自分が損させられないようにと叱る。
頭脳明晰で、能力は高いが自我が強いため不誠実で我欲の強い人間がリーダーになると、短期的には成績が上がったり成果を得ることがある。ところが中長期の視点で見ると不平等や独裁的な決定が行われ続けるので組織は腐る。それに住民も巻き添えになる。だから第一優先として誠実な性格の者を先に選び、その中で能力の高い人をリーダーに選ぶ。
仕事ができるという理由でリーダーにすると、そのグループのスタッフが苦しむことがある。リーダーに人のことを思いやる誠実さと愛情がないと、できない人への攻撃が始まる。
自我の強いリーダーは実力主義を好む傾向にあり、組織の評価基準もそうなる。そして実力はあるが誠実性の足りない人が昇進し、組織には腐敗と不平等と軽率な行動が増えていく。
自我の強いリーダーのいう平和は、自分たちの狭い世界の平和を指す。その平和が脅かされると武力や軍事力で攻撃するという選択肢を選ぶ。ところが武力で相手を屈服させて表面場は落ち着いたように見えても、相手にも自我があり恨みが残るため、そこから報復に怯えることになる。いつまでも平和がやってこない。
自我の強いリーダーは、部下の手柄を自分の手柄として自慢する。
リーダーが判断をする時に、自我が入るほど適正な判断から遠のいていく。例えば怒り、恨み、劣等感、個人的な利益など。
やられたらやり返すというリーダーは、リーダーにふさわしくない。目の前の問題は沈静化しても相手の恨みは残り、その仕返しは1年後、10年後、50年後かもしれない。
この人に逆らったら仕返しされそうと感じさせる人をリーダーに選んではならない。またそういうリーダーを選ぶ人は恐れからで、偏った視点で判断している。誰かに頼み事をして断られたとき、自我は逆恨みし、相手を攻撃することもある。
自我が強い人は相手の意見を聞く視点がないので、自分の意見を話してばかりになる。それが押し付けにもなる。組織のリーダーだった場合、最後にはこの人には何を言っても仕方がないということになり、メンバーが改善点を見つけても黙っておく結果になる。
自我の強い人は自制心が弱く思いつきの言動が増える。よって小言や口出しが多くなり、そのリーダーの下で活動すると自由さが失われていく。自我の薄い人の元ではその逆となり、のびのびと活動しやすくなる。
また思い付きで喋ることも多くなるため、この前言っていたことと今言っていることが違うということも多くなる。それがスタッフにとっては理不尽に感じ、嫌気がさしてくる。
リーダーの小言や注意が多くなると、スタッフのストレスとなる。すると集中力とやる気が失せ、組織の生産性は下がる。また注意された側は徐々に自信を失っていくため消極的になるか、組織を離れていく。
リーダーが不誠実なら、その組織は居心地の良いものにはならない。
性格の悪い人は嫌われ、性格の良い人は好かれる。人は性格の悪い人が仕切る組織には属したくない。だから性格の良い人をリーダーにする必要がある。性格の良い人とは自我への囚われが薄く、意識として在る人のこと。
リーダーが粗野であると、粗野ではないスタッフはそのグループに属していることを恥に感じる。特に他人に知られた時は。
リーダーには肩書きよりも信用が必要。信用を得るには誠実さと実力。信用があれば、肩書きがなくてもスタッフは信頼して話を聞き、動く。肩書きだけでは、スタッフはとりあえず表面上は従っているように装う。
自我の強い者が親分になると、その後に待ち受けるパターンはある程度似てくる。それは次のように進む。
自我が強い者が親分になると類は友を呼び、同じく自我の強い者がその周囲に集まってくる。それが子分となり、イエスマンになる。その子分は媚を売るのが上手く、親分が喜びそうな一言や行動を巧みに見せる。そして親分から特別扱いを受け、早く昇進したり、特別なポジションを与えられ、給与や取り分が他よりも多かったりする。
親分も子分も我欲が強いため、自分達ばかり優先する。すると組織にいるまじめに働く他のメンバーは、一生懸命働くことが虚しく馬鹿らしく感じてくる。そして組織の連帯感や自制心はなくなってきて、あきらめもあり注意することもなくなってくる。こうして組織の腐敗や汚職が進む。
この段階になると、まじめなメンバーが親分や子分達の行動を指摘して止めることは難しくなる。なぜなら自我の強い者は攻撃的でいじめ体質であり、指摘しようとする者は攻撃され解雇される危険性を感じるため。
自我が強いという性格の似た者同士、気が合い、親分と子分の初期段階の関係性は心地が良い。ところが欲望を自制する力に欠けるため、親分はやり過ぎることが増え、安定した決断に欠ける。例えば自分の取り分だけ異常に多かったり、組織の資産を不正に使用したり、節度のない指示が多くなったりなど。子分も自分たちへの分配が親分ほどに多くなければ妬み、不満が溜まってくる。子分達は基本イエスマンで、親分を恐れているため面と向かって主張することはほとんどできない。
そうして誰も親分の暴走を止めることはできず、組織の運営が傾き、子分達も自分の危険を感じ始める。すると今度はその子分達が親分の敵になり始める。そうして内部分裂が始まり、それまで自分たちが親分に媚を売って特別扱いを受けていたことはなかったかのように振る舞い、正義を振りかざし始める。
ここで典型的なのは、我欲の強い親分はどんなに自分が悪くてもそれを他者のせいにでき、嘘をついてでも自分は被害者だと主張する。またそれを外部の人間に真っ先に主張し、仲間を増やして優位な状況を築こうとする。この時、場合によって親分は現場から逃げ、身を隠す。
その後、親分が組織から去ったとする。これで問題が解決するかというとそうはならない。前の親分と似た自我の強い子分達の誰かが新しく親分になり、同じことが繰り返される。
この時まじめなメンバーが子分達の過去の過ちを指摘しても、子分はそれを認めず、すべて前の親分の責任にする。つまり自我の強い者は常に誰かのせいにするため同じことを繰り返し、成長がない。そして当たり前のようにその後、自分たちだけ取り分が多かったり、特別扱いをするということが起きる。こうして負の連鎖は続く。
この連鎖を断ち切るには、自我の強いメンバーを一新するしかない。ただ子分達は我欲が強いため仕事を意欲的にこなすタイプが多く、内外への影響力も大きい。
つまりこうなる前に、親分を選ぶ段階で、その人物は自我が強いかどうかを見極め、誠実な者を選ぶよう心がけなければならない。良くも悪くも結局、その影響は組織の全員に帰ってくる。そしてその組織を立て直すには膨大なエネルギーがいる。
内面に争いのない誠実なリーダーを選ぶという視点を世界中の国民が持っていない世界では、欲の強い者がリーダーになりやすくなる。立候補制の場合、誰もがリーダーになる権利がある。これは誰もが努力しだいでリーダーになれる公平な仕組みではなく、強欲な者が候補者として多くでてきて、投票者は見分けることが難しくなってしまう仕組み。よって自我の強い者がリーダーになる可能性が出てくる。
こういった自我の強い人物がリーダーになると、その自我は負けることを恐れるため自国の武装化を主張し、それが抑止力にもなると力説する。ところが他国にも自我の強いリーダーがいると、同じ恐れを持ち、軍備の増強を始める。こうして延々と平和な社会は訪れない。
立候補制でリーダーを選ぶと自我の強い者が出てくる。その中には人から尊敬されたいや、地位と名誉を求める欲深い者、小利口な者、歴史に名を残したいという欲深い者が出てくる。
一般的に愛想が良く世間の評判が良い人がいたとしても、毎日一緒に過ごしている身近な家族や仕事仲間は裏の性格を知っている。社会のリーダーを選ぶにはこの目線が必要で、推薦でリーダーを押し上げる方が平和な社会を築くには適している。
自我の強い者は目的を達成するために、相手の懐に入り込むことに長けている傾向がある。最高の笑顔、最高の愛想、相手が喜ぶ褒め言葉、従順さ、低姿勢、贈り物など、目的達成のために相手にどんな媚でも売れる。この部分だけで判断すると誠実で低姿勢で感謝を忘れない誠実な人のように見えてくる。しかしこれら極端な行動を見せる人ほど反対に、その度合いに応じた攻撃的な性格を隠していることが多い。
普段は気さくで感じの良い人でも、組織のリーダーになると突然独裁的な傾向が見られたり、威圧的で高圧的な態度になることがある。つまりリーダーになってからでないと見えてこない、隠されたその人の性格がある。そのため簡単に辞めさせられる組織の仕組みがあるほうが、世の中が殺伐とした空気へ向かうのを防ぐことができる。
自らリーダーになろうとする者よりも、私生活の態度を知っている周囲に推薦される誠実なリーダーの方が、平和な社会を築くには適している。
日頃から無心になり意識として在ることに取り組んでいると、欲は限りなくなくなっていく。よって自ら手を上げてリーダーになろうとはしない。だから周囲が推薦する必要が出てくる。そういうリーダーは内面に争いがないので誰とも争わず、平和な社会を築ける。
謙虚で誠実なリーダーを選んでも、その周囲の大多数が自我の強い者であると、リーダーの意見は無視され、すぐに潰される。誠実なリーダーは誠実なリーダーやメンバーで囲むことが大事。それによって平和で穏やかな社会が持続する。
国民がリーダーの選出に無知であったり無関心であったりすると、やがて独裁者がリーダーになる可能性が高くなる。その時、人々はこのリーダーを批判する。しかし国民の無知や無関心がその始まりである。
自我はいつも攻撃する相手を探していて、もっともっとと際限なく物質的な物を求める。自我の強い人物が大統領や首相になれば、領土をもっともっと拡げようとする。そのためには武器も使い、姑息なこともして相手を攻める。そのため周囲の国が武装化して軍事力を高めても、様々な角度から揺さぶりをかけ、侵攻のためのすきを作ろうとする。各国のリーダーが自我の強い者である限り侵略はなくならず、戦争もなくならない。周囲の国からすれば、平和で安心という状況はいつまでも生まれない。平和な社会を築く唯一の道は、世界中で自我への囚われが限りなく薄い人物をリーダーに選ぶこと。それを世界中の人が理解し、そういった人物をリーダーとして選ぶ。そうでなければ平和な社会は根本的に生まれない。
世界中の人が心の平和な人をリーダーとして選ぶ必要性を認識しなければ、平和にならない。
リーダーの言動と行動が一致しないことが増え始めたら、交代を考え始めた方が良い。誠実性のない本性が見え始めたためかもしれない。
自我の強い人物と自我の薄い人物を同じグループで働かせるのは、できるだけさけた方が良い。自我の強い人物は自我の薄い人を利用し始め、自我の薄い人たちは働く気をなくしていく。
組織もリーダーも、無心になり意識として在ることを基本とするものは調和へと向かう。
○誠実なリーダー・不誠実なリーダー
自我の重い軽いは誠実性と関係する。自我の軽い人ほど誠実な傾向が増し、平和で不正のない社会を築くリーダーに適している。自我の重い人から軽い人までグラデーションで分布しているので、その両者の中間層もいる。
良いリーダーの基準
人間の自制心を取り扱うのが脳の前頭前野だが、その力が強弱が自我と関係すると、次のように性格タイプは分かれてくる。
自我・前頭前野=性格タイプ
○お金の社会
政治、経済、教育、福祉、医療、科学、娯楽など、あらゆる業界はお互いに影響し合っている。その中で起こる問題はほぼすべて、直接的、間接的にお金と関係している。その理由はこれらの業界の大外には「お金」という大枠があるため。この大枠を出た脱貨幣社会に解決策がある。
お金の社会では、お金がほしいという欲がある経営者の方が事業を成功させやすい。意識として在る人に、そこまでの欲はない。お金の社会でお金を持つことは権力を持つことでもあるが、お金を奪い合うという争いを基本としているため、平和な社会を築くことはできない。お金を得る必要がない社会を築く時、意識として在る人々がリーダーとして表に出やすくなり、争いがなく自然環境が守られる社会が築かれる。
お金の社会では、頭の良さは良い学歴に直結し、良い学歴は良い会社への就職や安定した高い給与へとつながり、国にとっては他国との競争に勝つための人材育成へとつながる。お金を基準として社会の仕組みが形作られている。この仕組みは獲得を前提としていて、意識として在るという本質的なことを基準とはしていない。
お金の社会では人間の欲望が増大するため、価値観が獲得に大きく傾く。お金の獲得、物の獲得、役職の獲得、名声の獲得、人の獲得、技術の獲得。獲得で喜ぶのは「私」という自我。自我は自然の循環が補える以上の資源を食い潰す。意識として在る時、獲得という欲は薄れ、自然の循環内の必要最低限の獲得のみとなる。
お金の社会では自我の止まない欲は物をもっと作り、もっと売り、その分天然資源は使い続けられ、ゴミも増え続ける。経済成長はこれの繰り返し。経済成長に反比例して、自然環境は破壊されていく。
もっともっとと求めるお金の社会は自我を強め、無心から遠ざける。そうして道徳も節度も薄れる。
薄味の食事に慣れると、貨幣社会の食べ物がいかに濃い味付けかがわかる。刺激は人を中毒にさせる。中毒にさせると儲けられる。病人も増える。中毒になるのも自我。
お金の社会は個人的な損得の社会なので、個人の利益を守るルールや規制が増え、複雑になっていく。
ルールを細かく増やしても、それをかいくぐる者が出てくる。特にお金への欲が絡むと。
お金の社会はお金の奪い合いの社会。だから勝つ者と負ける者が生まれる。こうして路上生活者や低所得者は、何百年と世界中で存在し続けている。お金の社会とは、みんなが普通以上の生活ができる仕組みではなく、不公平になる仕組み。それはお金を稼ぐことが上手い人が勝つゲームで、一部の大富豪がお金を独占し、大多数の人々が低所得者になる仕組み。
お金の社会の過集中は効率的に利益を生み出しやすいが弱さもあり、災害などをきっかけに問題になる。都市への人口集中、一ヶ所での大量生産、収入源が一つの会社から、デジタル機器頼みなど。利益を追い求めない脱貨幣社会を築いた時、人口分布も農業も製造も分散型の社会が築かれる。
どんな小さな会社でもお金の社会で事業を始めると、まず生き残ることが第一優先になる。すると自然環境などへの配慮が二番目以降になる。
天職、適職であっても、人気のないものやお金にならないものがある。すると生活できず継続が難しくなる。そういった意味で、お金の社会は人間の表現の幅をせまくする。
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