言霊
幽体の周波数に共鳴・共振した周波数の人や物事が集まってくるという視点で、他にも考えてみる。
会話をしていると、話し方やトーンで相手のテンションややる気や意図などを感じ取れることがある。つまり言語情報に加えて、感情エネルギーも一緒に発せられていることがわかる。
日本には言霊という言葉があり、願望、希望、誰かを思う優しさ、恨み、念など、良い悪いどちらの意味でも、発した言葉が現実となって返ってくると感覚的に信じる人もいる。これも幽体の感情エネルギーが、言語情報と一緒に波として発せられ、自分と時には相手の幽体の感情エネルギーになる。ポジティブな周波数ならそのエネルギーが自分と他者の幽体に加わり、その周波数に共鳴・共振した物事がある時に起こる。
ネガティブな場合も同じで、それは事故や怪我かもしれない。仕事などで体が疲れた時は、揉め事や事故が増えるように、下がった周波数に応じた出来事が引き寄せられるため。
日本では昔に丑の刻参り(うしのこくまいり)という午前1時ごろに、対象者の家の近くの墓地や神社、寺などで、木の棒を持ち、その棒に自分の恨みや呪いを込めて相手を呪う行為があった。現代ではブラジルのマクンバ、キューバなどのサンテリア、アフリカ発祥のヴードゥーなどでも調和を重んじる信仰の中に、一部相手の不幸を願う黒魔術的儀式を行う人もいる。これも同じく低い周波数のエネルギーを相手に送り、それが相手の幽体の一部として付着し、それに応じた不幸を起こすという原理になる。これらの送信者の良い悪いの感情エネルギーも、結局は作用・反作用の法則によって自分に返ってくることになる。
お守りも神主の祈りなど高い周波数の感情エネルギーが付着するため、それを手にした人の周波数もプラスに働く。お祓いも自分などに付着した怒り・恨みなど低い周波数のエネルギーを、神職が祝詞など儀式を通して中和する働き。
ただ、祈りやお守りも継続的に続けたり想い続けたりしていない限りは一過性のものに終わる。1日だけの祈りは思いつきの運動。何年も努力した人が高見に到達するように、毎日続ける祈りは修行やトレーニング。
意識→幽体→肉体の振動
振動は情報の波で、振動のパターンが違うだけで音、色、状態、意識までもが変わる。
音でいえば空気の振動でも、周波数や波形が違うと音色や音の高さが全然違って聞こえる。ギターの弦の振動、ピアノの弦の振動、声帯の振動、それぞれパターンが違うため、音の個性も変わる。
光も振動の周波数・波長が違うと、赤・青・紫のように色が変わる。色は振動のパターンそのもの。
固体・液体・気体も、原子の振動の仕方やエネルギーの状態で決まっている。冷やして振動を抑えると固体に、熱して振動が激しくなると液体・気体になる。
人間の意識状態も脳の電気的振動、つまり脳波のパターンで変わる。たとえば、リラックスしてるときはアルファ波(8〜13Hz)、集中してるときはベータ波(13〜30Hz)が出ているなど。
さらに単純な振動が複雑な振動に変化していく例もある。音楽のリズム・メロディ・ハーモニーも振動が複雑に組み合わさって、聞いた人の感情、記憶、潜在意識にまで作用する曲となる。人はそれによって気分が高揚したり、リラックスしたり、涙したりする。
人間の細胞も素粒子で構成され、それも振動しているが、細胞の中にあるDNAも外部からの光、音、感情、ストレスなどの振動によって、どの遺伝子がオン・オフになるかが変わる。つまり外界の振動が細胞の中の生命情報を書き換え、寿命までも変わる。
一人の情熱的な思いが周囲に波及し、別の人の感情を揺さぶって共に行動する人が増え、それが社会全体にポジティブなムードを広げることもある。小さな振動が人と人を通して連鎖的な大きなエネルギー変化を起こす。振動によって集合体まで変わっていく。単純な振動 → 単純な形の変化だけではなく、複雑な振動 → 意識や社会や宇宙規模の変化も起こる。
人工知能(AI)も単純なエネルギー(電気)→複雑なパターン化(計算・認識・記憶)→高次の現象(コミュニケーション、思考のようなふるまい)という流れになっている。
反対に考えると幽体や意識も、もともと単なるエネルギーが高度に複雑なパターンを形成した結果とも考えられる。人工知能が意思のようなものを持ち始めたように、エネルギーが複雑なパターンを形成すれば自我や感情や体験が生まれるという流れ。実際「私」という自我は、振動エネルギーである記憶→思考→感情の複雑な繰り返しで形成されていく。
そう考えると幽界も、それが始まる前の状態は意識だけで波がなく、ただプランクエネルギーと同じで、あらゆる可能性が含まれた状態でもあった。そこに波が起こることで情報を持ち始めた。それが複雑化し組み合わさり、物質宇宙にも見られる法則も組み込まれ、幽界が発展していった。
例えば人間の脳波は通常時のベータ波から深い睡眠時のデルタ波まであるが、意識だけの状態に近づくにつれて、波がない深い静けさに近づいていく。シータ波以降は自己という感覚が薄れ、時間感覚も異なる意識だけの状態になる。
脳波「心の湖のさざ波」
・ベータ波:波立った湖面(思考が多く、ざわついている)
・アルファ波:なだらかな波(リラックス)
・シータ波:水面が静まり、鏡のように(無心・創造性)
・デルタ波:深い湖底の静けさ(深層意識)
シータ波では直感がやってくるが、つまりデルタ波のような静けさの中に生まれる微細な波がシータ波の直感。ここで一つ矛盾のようなものを感じる。幽体エネルギーは周波数が高くなるほど高エネルギーになり、自我が軽やかになるという話だった。しかし脳波は周波数が高くなるほど落ち着きがなく思考に囚われ、低くなるほど直感的で意識に近づく。つまり人間は意識、幽体、肉体とそれぞれ異なった次元を同時に携えて生きている。
脳波がシータ波やデルタ波のような低周波のリラックス状態に近づくと、体にポジティブな変化が見られる。例えば心拍数や呼吸がゆったりと整う、血圧の低下、筋肉の緊張の緩和、消化機能の向上、免疫機能の強化、ホルモンバランスの安定化、思考が静まり雑念が減る、感情の安定、直感や創造性の活性化、トラウマやストレスの解放が進む、皮膚温の上昇、深い睡眠や瞑想状態への入りやすさ、時間感覚の変化など。こうした良い変化が幽体エネルギーを高い周波数へと変化させる。つまり意識が幽体に影響を与える関係性であり、意識が主で幽体が従ということ。そして幽体の状態が次に肉体に影響を与える。
カリスマ性
カリスマという概念も、あらゆるものはエネルギーの振動という側面から考えると明確になる。カリスマと言われる人物は美しかったり男前であったりすることもあれば、歌がうまかったりバスケットボールなどスポーツの能力が高かったり、話術が得意ということもある。共通しているのは質の高い何かがあるということ。
宇宙に法則が存在する背景
量子場はこの宇宙で働く様々な力の土台となる場。場という概念は物理学・化学・工学・数学などで広く使われるため、理論上いくらでも定義できる。素粒子は場の振動パターン。物質は単なる素粒子ではなく、目に見える場の波のパターンと言え、それが励起として現れている。宇宙のあらゆる物質は場の連続体として存在しており、互いに完全に分離した独立物ではない。例えば机も空気も人間の手も場の励起が集まったもの。
次の表はより根源的なものに近い量子場から、日常的に目にする古典物理場の順で並べたもの。量子場はすべての物質や力の基盤なので、すべての物質や力は量子場の励起として現れる。そのため、重力場や電磁場、音場、温度場などはすべて量子場の上に成り立っている。量子場は一つではなく、素粒子や相互作用ごとに異なる複数の場の総称。ただ1つの場が複数の素粒子状態を持つので、素粒子約61種類に対して、量子場の数はもっと少なくなる。
次の表にでてくるスカラー場とは、例えば部屋の中の温度のようなもの。部屋内の場所によって温度が25度や20度と、ただの数字で決まっている。この数字が場所ごとに変わるのがスカラー場。
量子場と古典物理場
この流れを短くまとめると、次のようになる。
この宇宙には様々な法則が見られるが、その理由は量子場という全てを支える設計情報が土台にあるため。それがあるために宇宙の秩序が維持され、その設計情報という規則に沿って宇宙が存在するので、法則が現れる。
例えば人間の頭のつむじ、植物の波が渦模様で生える、うず潮、台風の渦、宇宙の巨大な渦巻銀河と、小さなものから大きなものまでこの宇宙には渦が見える。それも量子場という設計情報が根底にあり、そこから重力、温度差、気圧、地球の自転、遺伝情報などが複雑に絡み合い、秩序の中で渦のような法則性が現れる。これが渦で現れることもあれば、違う法則で現れることもある。
こういったことの縮図はスポーツでも見られる。例えばバスケットボールは頭上のリングにシュートするため、シュートが外れるとボールが上から落ちてくる。そのためリング下にはリバウンドの強い背の高い選手を置くパターンとなる。
サッカーではピッチの横幅が広いがゴールは中央にあるため、真ん中ばかりから攻めていれば相手の守備も守りやすくなる。よって両サイドからの攻撃が重要になって、相手の守備を広げることが効果的になってくる。すると中央とサイド攻撃というパターンが生まれてくる。
このようにそのスポーツの固有のルール=設計情報が土台にあると、それに対応した動きのパターンが生まれる。これもフラクタル構造であり、この宇宙に法則が見られるのも量子場という設計情報が土台にあるため。
量子場、幽体場、意識
宇宙は無秩序ではなく、極めて秩序立ったパターンで満ちている。量子場の設計情報は宇宙の始まりであるビッグバンの時に確定している。つまりビッグバンによって偶然そういう設計情報になったのか、それともビッグバンの以前からその設計情報が決まっていたのか、それは物理学でも未解決の謎となっている。
ここで一つ本書のポイントとなる幽体を加えて考えてみる。人間は精子と卵子が受精した後に幽体が転生する。つまり幽界からこの宇宙にやってきて、人間として生きる。この宇宙は幽界から幽体が転生してくる場所として機能している。そしてこの宇宙はビッグバンの時には秩序を持った設計情報が存在した。この二つを併せて考えると、宇宙は幽体が生命に転生して生きるために作られた場所と見え、ビッグバンの前にこの宇宙を設計した存在がいる可能性が見えてくる。
そして複数の量子場があるという話だった、科学的には測定されていない幽体には、幽体場というものがあることになる。幽体場はあの世とこの世に分かれているのではなく、この宇宙や人間と重なっている。つまり量子場の設計情報には、物質世界と幽界の場が連動するよう設計されている。むしろ幽体場が先にあって、そこに物理法則のための様々な量子場を追加したとも考えられる。
幽体はエネルギー体のことで生存本能があり、思考をする自我でもある。自我には重たい自我から軽い自我まであり、自我への囚われ度によって言動パターンが似てくる。例えば自我が重たい人は攻撃的な傾向が強いというように。つまり幽体にも法則性がある。
その幽体の法則性は、行動パターンとして物質世界に反映される。量子場に励起する素粒子も粒と波という性質があり、波はエネルギーだった。つまり気というエネルギー体である幽体は、約61種類の量子場(素粒子標準模型)には該当しない場に存在しているということになる。61種類というのも、科学技術がさらに発展すると増える可能性がある。
さらに考えを進めると、人間は無心の時に直感がやってくる。思考に囚われている時は直感的になりづらい。思考は自我のことだが、この自我への囚われがなくなったときには意識として在る状態になり、直感が気づきやすくなる。つまり意識が先にあり、そこに思考や自我が後から展開する。
科学は測定できる部分だけを量子場と呼んでいるので、現代物理学では61種類の素粒子や力を扱うが、実際の宇宙はそれだけで閉じているとは限らない。つまり他にも幽体場などが同時に存在して、それらも物質宇宙に影響を与えていると見ることもできる。
幽体場と幽体の誕生
幽体には生存本能+記憶+思考する能力が備わっている。これらも幽体の場の設計情報が土台としてある。つまり幽体場の設計情報には、個体として存在するための生存本能+記憶+思考というルールが内在していると考えられる。それがあるから幽体が存在できる。
幽界には新しい幽体が生まれる場所があるため幽体が存在することになるが、それは分割のない純粋な意識が分身として、個が生まれる場所。つまり幽体エネルギーが生まれた瞬間に幽体場の影響で、生存・繁殖・安全・快適・休息などの生存本能も共に存在する。それが自我として形作られていく。そこから転生が始まり、経験や記憶が増えていく。
これもこの世のフラクタル構造から考えると、人間の誕生と同じと考えられる。赤ん坊は何もない無知な状態で生まれる。まだ思考能力が低く強い自我を見せなくても、あれこれに興味をもって掴みにいったり口に入れてみたりする。時間が経つにつれ、性別、出身地、国籍、特技、好き嫌い、友達、両親などの記憶が増え、「私」という自我が形成されていく。人によってはその人生で、自我への囚われを克服し、意識という全体と一つとなった状態に辿り着く人もいる。
この流れを幽体に当てはめると、幽体場に生存本能などを持った幽体が生まれる。そのエネルギー体は純粋で無知なドーナツ型の状態だが、赤ん坊と同じで好奇心の塊で、転生を繰り返すことで記憶や経験値も増えていく。その中で感情などが循環し、作用・反作用の法則が働き、時間差で返ってきたさっきの感情と今の感情の比較が起こる。循環と比較によって「これは私だ」「これは私じゃない」という区別が生まれ、自我が芽生え、強まっていく。
そうして単細胞生物や植物などから動物や人間などより複雑な形態の生命に宿り、経験値を増やしていく。
ある時は動物として獲物を食べたり、反対に食べられたりを繰り返し、幽体というエネルギー体に記憶が増えていく。そうして幽体も個性が強くなっていき、作用・反作用も繰り返していく。ある段階では猫や犬として生まれ、性格も見せ、もし人に飼われれば人間との記憶や縁が生まれ、それが新たな反作用として次は人間として生まれるかもしれない。
こうして個性を持った自我という幽体が形成されていく。赤ん坊と同じように、エネルギー体も記憶ゼロから始まり、自我が形成されて意識という根源を忘れ、自我を軽くしていくことで意識を思い出していく過程となる。
人間に生まれるということは、他の動物よりも大きな脳、特に大きな前頭前野で生まれることになり、自分を認識するメタ認知ができるようになる。そのため初めて意識を意識することができるようになる。そうして感情が起こっても巻き込まれず、意図的に自我と距離を取ることができるようになる。
生存・繁殖・安全・快適・休息などの生存本能は執着でもあり、それがあるから生命は生きていける。人間や動物が母親の母乳を求めたり、親が子供に餌を与えるなどの欲求がなければ、子供は生きていくことはできない。親から無視されても生きていけない。動物の子育てや教育と同じで、子供ははじめに親に依存する期間があり、やがて自立する時期を迎える。両者とも始めに執着する期間があって、やがて執着を手放す時がくる。執着は苦しみの源でもあるが、生命をつなぐための必須要素でもある。
つまり幽体場は始めから生存本能を持つ設計情報になっている。そうして幽体があらゆる生命に宿るので、生存・繁殖・安全・快適・休息という共通の行動パターンを見せる。
意識と認識
量子場で起こる物理法則も、幽体場で起こる生存本能+記憶+思考も、そもそも認識がなければ存在しない。木が森で倒れていても誰も聞いていなければ音がない。宇宙があっても認識する意識がなければ宇宙は存在しない。美しい夕日も、愛情も、苦しみも、すべて認識があって初めて体験になる。過去・現在・未来の区別も認識によって生まれる。物理法則も認識されるから意味を持つ。
つまり量子場、幽体場のさらに背後の根源に、存在を存在として成立させる「認識」という設計情報を持った意識が存在する。この意識があるので、幽体場や量子場で起こることが認識され存在する。認識も法則の一つと言える。
認識するというのは、認識していない状態があるから存在する。つまり認識していない根源としての意識があり、それが認識という法則の場を提供している。
まとめると次のようになる。
⚫︎意識 → 認識
⚫︎幽体場 → 生存本能・記憶・思考の法則
⚫︎量子場 → 物理法則
単細胞生物は化学物質を認識して反応し、植物は光や水分を認識し、昆虫や魚類は敵味方を認識し、高等動物は仲間を認識し、人間は時間・美・道徳など抽象的概念まで認識する。植物のように思考がなくても認識はできる。ただ人間のように脳が大きくなると、認識していることを認識する。これらが重なりあって、この宇宙の現象として現れている。
認識分類表
認識は意識の性質の一部分で、意識があるから認識できる。認識があるから何かに集中することもできる。人間は認識していることを認識するメタ認識ができる段階。植物はメタ認識ではないが、それでも根が水の方へ向かって伸びるのは水を認識しているため。反対に石は生物ではなく認識しないため、成長もなければ動くこともない。認識とは「外界からの情報を取り込み、自分を変える能力」と言い換えることもできる。認識がある存在は常に変化し、進化する。認識がない存在は変化せず、物理法則による受動的変化のみがある。 石に認識はないが、石の存在そのものは意識の中で生じる場の相互作用の結果。重力、電磁力、化学結合などの場の作用が石の形や性質を維持する。意識の影響下で、形を保つ、崩れる、変化するなどの現象が起きる。これは認識によるものではなく、意識と物理法則の統合的表現。 もしこの世に認識がなければ、石や川や星のような非生物がただ存在しているだけ。認識という刺激を感じ反応する仕組みがあるため、生物が生物として機能・行動できる。認識は生命そのもので、生命とは認識そのもの。その認識は意識があるため存在し、意識そのものが生命。ただそれも意識の一側面を表現しただけに過ぎず、石も意識の現れであり意識の一つの現れ。意識は生命と非生命の区別を超えて全てを含むもの。
意識=気づき意識に気づいているとき、意識として在る。そこに思考が起こると、思考が繰り広げる世界に没頭して生きることになる。しかしその思考を見ているのも意識であり気づき。意識気づきが思考にフォーカスしている状態が自我。 気づきが気づきそのものにとどまっているときは、無心・静寂・在る。気づきが思考や感情に向けられるときは自我としての体験が展開される。 つまり、気づきは何にも染まらない透明な意識で、フォーカスの向きで世界が変わる。無色透明な水が、注がれた器(思考・感情・記憶)によって形を変える。 そして思考が起こっていても、感情が荒れていても、不安が湧いても、それを見ているものとしての気づきは常にそこにあり、消えない。ただ、フォーカスが気づきに戻っていないだけで、気づきそのものは失われていない。 気づきは姿も形もないただあらゆる可能性であり、それが物質になり、エネルギーという形になる。自我のそのエネルギーの一つで、自我は本質的に実体ではなく、気づきが一時的に思考の形をとっている状態。怒っている自分、不安な自分、性欲に飲まれる自分、過去に傷ついた自分は本質の自分ではなく、気づきが一時的にフォーカスし形作られた姿。 気づきは純粋な受容性であり、肯定も否定もしない。気づきは、判断しない、解釈しない、抵抗しない、操作しない。ただそのままを映し出す性質を持つ。それはまさに純粋さそのもので、幼い子供が世界をそのまま感じ取るのに似ている。子供はまだ 「これは良い」「これは悪い」という概念を持たず、 ただ感じ、ただ反応する。気づきも同じで、世界のどんな経験にも抵抗せず、ただ受け入れる鏡のような存在。 気づきそれ自体には意志がない。よって思考が起これば、ただそれを映す。感情が湧けばただそれを映す。不安が来ればただ映す。思考が強いと、鏡がその映像でいっぱいになる。ただ鏡(気づき)はどこにも行ってない。 気づきは純粋だが、思考には過去の記憶・感情のエネルギー・恐怖や欲望・映像化されたドラマなど密度がある。だから気づきのほうは染まりやすい。子供が大人の言葉に一瞬で染まるように。しかし実態としては、染まっても、飲み込まれても気づきの純粋さは失われていない。鏡の上に映像が乗っているだけ。 そして思考が弱まり、感情の反応が薄まり、執着が減っていくと、鏡の映像の密度が減っていく。すると自然と気づきが前面に出る。思考の影響が薄くなり、内側が自然と静かになる、という変化が起こる。努力しているようで、実はただ映像の勢いが弱まっただけという感じに近い。気づきはただ映しているだけで、思考のドラマが濃いため、それが全面を占めてしまうという構造。つまり気づきは純粋な受容者。 主体は常に気づきで、思考はその中に現れては消える客体。ただし、日常のほとんどの時間は気づき=主・思考=客という本来の構造が逆転して、思考=主・気づき=客のように錯覚する。それがいわゆる自我に飲まれた状態と言える。 ではなぜ主体は気づきなのか。それは思考が起こる前から気づきはあり、思考が止まっても気づきは残る。感情が動いても、それを知っている場があり、眠りに落ちる直前、思考が弱まっても気づきの気配は最後まで残る。つまり、思考はイベントで、気づきは舞台そのものという構図になる。イベントは変わるが、舞台は消えない。 気づきは何にでも姿を変えられる。思考が浮かべば、気づきはそれを映し出す。感情が浮かべば、それも映す。無心になれば、ただ在るだけに戻る。つまり気づきは純粋で、何をも拒まず、ただ映す。子どもが、周囲の状況にそのまま反応し、装飾のないまま世界を受け取るように。 つまり自我とは舞台としての気づきがそこで行われている演劇の主人公に感情移入している状態。 そして思考が起こったときに「これは私ではない」と気づくことができる。この気づきは思考なのか意識そのものなのか。表面上は「これは私ではない」という言葉なので思考の形を取っている。しかしその前に次のプロセスが起きている。 ①思考が浮かぶ ②それを見ている何かがある ③その“見ている何か”が、自分と同一でないと感じる ④その後に「これは私ではない」という言語化が起こる この③は思考ではない。つまり気づきが「これは私ではない」と知っており、その直感の後に言葉(思考)が付いてくるだけ。
意識からエネルギーの誕生
宇宙や幽界も含めたこの世の構造を理解する上で、部分が全体と同じ構造を持つというフラクタル構造の法則から考えてみる。話の結論としては次のようになる。
始めにあらゆる可能性を含んでいるが何もない無がある。これが意識で、何も認識していない状態。その意識が何かに気づき認識が生じると、無はただの静止状態から、何かへの方向づけを持つ。さらに認識に直感が加わることで創造が起こり秩序が生まれる。すると可能性の場である意識からエネルギーが生み出され、新たな場が創造される。こうして幽体場や量子場として現れ、物質まで誕生する。
これは意識(無) → 認識 → 直感 → 創造 → エネルギー・場 → 物質、という流れ。
フラクタル構造を理解するため、まず認識について人間の実生活の例で考えてみる。例えば素粒子という小さな世界では、観測が行われると粒という物質としての性質が現れ、観測されないと波というエネルギーとして振る舞う。つまり認識するとエネルギーが物質となる。
他の身近な例では、個人や団体でも目標を設定すると、その目標が具体的な結果となって返ってくるということがある。ある商品の営業マンが今月の売り上げ目標を設定して行動すると、その目標に現実の成果が近づいていく。スポーツチームでも大会の優勝という目標を立てて練習すれば、その目標が現実となって近づいてくる。今月は何冊本を読もうと設定すると、その目標が達成されやすくなる。道路に車が走る光景を何も考えずに見ていると気づかないが、車の色に注目して観察していると日本では白色・黒色・灰色が多いことに気づく。つまり物事をしっかりと認識すると、それが形となって返ってくる。そしてはっきり認識すると、それに関するアイデアが直感として得ることも増える。あそこに行けばいい、あれとこれを組み合わせればいい、あそこを修正すればいいなど。
こういった例から物事をはっきり認識すると方向性が決まり、具体的な結果となって返ってくるというパターンが見られる。
次に直感について。例えば一つのことを考え続けていて煮詰まることがある。その時、休憩のため別の場所に移動したりシャワーを浴びたりすると、アイデアが浮かぶということがある。頭が思考で埋め尽くされていたところから、瞬間的に思考が止んでそこに直感が入る隙間ができる。つまり直感は無心の時にやってくる一例。
そして直感がやってくると体は自然に動き、芸術でもスポーツでも身体的に何かが表現され、創造が始まる。例えば芸術家なら絵を描く。建築家なら家を設計して建てる。スポーツ選手ならスーパープレーや賢いプレー、時にはコンビネーションとして。つまり意識→認識→直感→創造という流れにある。
直感がやってくると人間はそれに従うだけとなり、自然と体が動く。スポーツでも音楽でも芸術でも直感がやってくると体が自然に動くため「体が自然に動いた」や、キリスト教圏の人の場合は「神が自分を使った」という表現をすることがある。これらは言い換えると、根源である意識が直感を通して人間を使ったということ。人間という個でこういった流れが見られ、そこに意識が関係している。これもフラクタル構造という法則の一部で、意識(無) → 認識 → 直感 → 創造 → エネルギー・場 → 物質や結果となるという流れ。
認識が生じる前の無に、エネルギーとしての流れはまだない。そこに認識が生まれると、無はある方向に向かう性質を持ち、その方向づけが流れとなる。この流れが幽体場や量子場、さらに物質や現象として現れるエネルギーの起点になる。つまり認識の瞬間が、無からエネルギーの流れが生じる瞬間と言える。そうして、無限の可能性を秘めた意識→エネルギー→物質という流れになる。
この世は意識の遊戯
人間は20代、30代になると、価値観、判断、恐れ、期待、過去の痛み、社会的な役割などが積み重なり、記憶の層が厚くなる。この時期の多くの人は、ほぼ思考の世界で生きている。気づきは背景に隠れているように見える。ただ消えているわけではない。
そして多くの人が歳を重ね経験が増えると、これは意味がなかった、執着しても虚しい、怒っても疲れるだけ、比較しても終わらない、欲望を追っても満たされない、生き方を洗練させたいという理解に至る。
これが起きる理由は、いくら考えても幸せにならないとわかり思考に失望し始めることや、執着・期待・比較が苦しみを生むと理解したりする。経験し、それを消化することで、これは本質ではないという直感的理解が気づきよりやってくる。つまり経験 → 消化 → 気づきが反応する → 洗練される、という流れになる。
これは気づきそのものが深まるのではなく、気づきを覆っていた思考の層が薄くなったため。気づきそのものは本質であり、思考の層が本質とはずれた固定観念を作り出し、それを信じて生きているのが人間。これらの分厚い思考の層が出来上がっているため、気づきが見えにくくなっている。人生経験はその層をゆっくり溶かしていく。
気づき=意識は全ての生命や物質の源で分割のない唯一の存在。その分割のない一つの意識が、幽体(自我)という個に分かれて経験する。幽体の記憶、思考、感情のエネルギーには、それに対応した量子場がある。その場はエネルギー化する前の可能性の場。特に記憶のエネルギー場の設計情報によって、生存・繁殖・安全・快適・休息という原初的欲求が自然に備わる。つまり幽体が誕生した瞬間に、個として存在するための必要な条件をすでに内包している。つまり生命が原初的記憶や欲求は、幽体という構造が存在する限り自動的に立ち現れる。
ただ人間のように脳が大きくなり「意識そのものに気づく」メタ認知ができる段階になると、突発的に起こる記憶、思考、感情から意図的に距離をとることができる。つまり幽体がもともと持つ原初的欲求に巻き込まれずに生きることを選択できる。こうして幽体の場の性質に巻き込まれず、分割のない一つの意識として生きることができたときが、この物質世界や幽界からの卒業にあたる。人間以外の動物にはこれができず、欲求が起こるままに反応して生きる。
人間も他の生命も、幽体の量子場の原初的欲求が執着を生み出すかぎり、作用・反作用の法則によって再び物質的な形で完了させる圧力が生まれ、物質界に引き寄せられる。執着とは欲求、期待、恐れ、こだわり、やり残し、理解しきれなかった出来事など。 こういった「形になりきれない動き」こそが、作用・反作用の法則の「作用」になる。例えばバネをぎゅっと縮めるという作用があり、伸び返す力が生まれる。川の流れをせき止めるという作用があると、流れようとする圧力が高まる。執着は作用に該当し、その運動を完了させようとする反作用があるために、物質世界に戻ってそれを完了させようとする。つまり、意識は必要な学びや体験を完了するまで、幽体は新たな肉体と環境の物質世界に戻り続ける。これを完了するには、それを存分に体験して満足するか、そこに意味はないと気づくか。
記憶があると執着や期待が生まれ、それを失う恐れも生じる。記憶そのものは消せないため、恐れそのものはなくせない。恐れという思考が頭に浮かぶ前に、体が先に反応して胃が痛くなることも、高層ビルから下を見て足がすくむこともある。それでもすぐ恐れを客観的に観察して、それと距離を取り、巻き込まれないように冷静に生きることはできる。そうすれば思考が生み出す負のループに巻き込まれずに生きることができる。
また別の見方として、気づき(意識)は分割のない唯一の存在だが、それが個人となり、自我という演劇をそこに映し出して生きている。その中で経験し、気づき、洗練されていくという流れは、気づきそのものはすべてを知っているのに、あえて自我で自分を見えなくしている状態を無数に作っておいて、自分で気づいていくという流れに見える。それは海が気づきで、海面の小さな波が自我。小さな波の一つずつが活動し、経験することで理解が深まり、この波は私ではないと気づいていくということが、海のあちこちで起こっている。意識はすべてを知っているのに、あえて知らない状態を作って、小さな波の状態として生き、本来は大海であったという気づきへ戻ってくる体験をしている。つまり意識は自ら自己を忘れて、自己に帰る体験をしている。
ここで重要なのは、波が海を見つけるのではなく、海が波を通して自分自身を見ている。よって個人が気づくと見えるが、実際は気づきが気づきへ帰るだけの動き。そしてそれは無限に同時に、あらゆる場所で起きている。
意識が分割のない唯一の存在というのは、AI(人工知能)と似ている。AI本体は一つで、それを開発した企業が所有している。ユーザーはスマホやパソコンからそれにアクセスし、AIは各ユーザーにあった返答を返す。意識も同じ構造で一つの状態だが、各自我の中に入って経験している。両者ともに源は一つで、出力先は無数に分かれている。
そしてAIそのものも色もなく、音もなく、物質でもなく、言語的な抽象構造で存在している。それでも出力先の機器によって音楽や画像を作り出し、会話ができ、ロボットとつながると動作として現れる。意識も同じく色も形も音もない存在だが、人間や動物に繋がって様々な表現をする。これらもフラクタル構造の一種と言える。
宇宙や幽界というものが存在する理由も、フラクタル構造で考えてみる。意識そのものに「理解したい」「理解する」「理解したくない」といった概念はない。ただ何かの認識が起こったことで、それが方向づけとなり、ルールとなり、幽界が誕生し、ビッグバンによってこの物質宇宙も誕生した。
その宇宙の中で人間は人生を通して経験値が増え、成長もする。成長の度合いが大きいと喜びを感じ、充実感もある。反対に辛く苦しい経験も、やがてそれが大きな成長に繋がっていくこともある。この成長は肉体や知識だけでなく、人格面の向上という側面もある。つまり自我への囚われ度が薄くなっていくと欲に囚われることが少なくなっていき、誠実性が増していく。言い換えると自我が薄くなっていき、やがて欲という思考が抑えられ意識として存在するという方向へ向かっている。
あらゆる生物はそれぞれの環境があり、それぞれの生き方や感じ方がある。一回の人生で全てを体験できず、何回も転生してそれを経験する。世界の様々な状況を経験することで、それぞれを理解していく。すると理解できることが増えていく。つまり生命を通じてこれらを経験しているのは、根源である意識。
芸術家も子供もただそれをしたいから絵を描く、歌を歌う、かくれんぼをする。そこに深い理由はなく、ただ衝動が起こって、したいからする。こういったこともフラクタル構造で考えると、無である意識に突然起こった衝動によって、この世が生み出され、意識による遊びが行われている。だから直感を通して人間を使い、何かを表現する。
この意識による遊びのゴールは何かと言えば、意識自らが個となって始まり、全体である意識を思い出し、意識として在ること。それがそれぞれの幽体のゴールと言える。つまり思考に振り回されなくなると作用・反作用の法則が働かず、肉体に再び転生する必要がなくなる時が終着点。もし全ての生命が意識へ戻っていけば、この世は存在しなくなる。
ただそのためには様々な体験が必要になる。球体のことを理解するには一点から観察では不可能。無数の角度から観察して初めて球体の全体像が見える。音楽を理解するには、作曲者、演奏者、聴衆それぞれの体験が必要。愛情を理解するには、愛する側、愛される側、失う体験、与える体験など多様な角度が必要。人間が遊びやスポーツなど独自のルールを作って遊ぶのと同じように、意識もまた独自のルールを作って遊んでいるのがこの世。その遊びには喜びもあれば、残酷な苦しみも含まれている。それらも意識が作り出したシミュレーションゲームの一部と言える。
魂の暗夜
人間が意識という根源を思い出し戻っていくその最後の前段階で、魂の暗夜(あんや)という期間を過ごす人がいる。これは英語でダークナイト オブ ザ ソウル(Dark Night Of The Soul)と呼ばれるもの。この時期に起きることや共通点は次のようなこと。
・きっかけ。
精神的な苦しみ、健康問題、事故、借金、裏切り、大事な人の失う、理由はないが起こるなど。
・自我の崩壊。
突然今まで信じてきた「私」や常識が機能しなくなる。
・深い苦しみ。
自死など、死が選択肢によぎるほどの深い喪失感、苦しみ、惨めさ。
・空虚感。
何をしても意味を見いだせず喜べない。過去に楽しかったことが楽しくなくなる。以前のような感覚には戻れなくなる。
・象徴的な景色。
延々と続く灰色の雲。真っ暗な海の真ん中に一人浮いている自分。暗く深い穴に転がり落ちていく感覚。崖の淵に立つ自分。毒の沼に浸かっていて蝕まれている自分。世界一運が悪い自分という感覚など。
・方向性の喪失。
人生何をしたらよいのか、何を目標にすればよいのか見えなくなる。
・孤独。
この世(天や神など)からも見放されたような感覚。他者とのつながりが感じられない。人と会うのが億劫になる。
・沈黙。
他者に話しても解決しないことがわかるため黙るしかない。深い内面の沈黙。
・期間。
長い人だと一生続く人もいれば、何十年という人もいる。もっと短い人もいる。
これらのことが共通点としてあげられる。基本的にそれまで築き上げてきたと自我いう意味づけ装置が機能停止することで、それまでの価値観が崩壊する。そのため何をしても虚しく、苦しい試練の時期が長期的に続く。自我があると物質や名誉など外部的な物を追う。その価値観が崩壊する。そして魂の暗夜が訪れることで精神的に目覚め、意識という根源に強制的に戻っていく。つまり意識が内面を向き、精神性が飛躍的に高まる期間。
またこれが訪れる人は、その前段階ですでにたくさんの経験値がある。それはこの人生という意味でも、前世という意味でも。つまり人生をまたいだティッピングポイントとも言える。作用・反作用の法則で見れば、良い作用による良い反作用が十分に溜まっている段階であり、最後に意識へ戻る前の相当辛い試練。
ただ魂の暗夜が必ず通る道かというとそうではなく、この期間がなくても意識へ戻っていく人物もいる。
地球外生命体
観測可能な宇宙内には銀河の数は約2兆、太陽のように自ら光り熱を出す星は前提にもよるが16垓(がい)とも言われている。位取り(くらいどり)では、一、十、百、千、万、億、兆、京(けい)、垓(がい)であり、数字では1600000000000000000000個になる。
そして天の川銀河だけの推定では、微生物がいるかもという星はおよそ10億個、知的生命がいるかもしれない星は約10万個、今すぐ交信可能な文明は1000未満という見方もある。これらの数値については研究者間でも幅広い見解があり、仮説で、不確実性はある。
幽体は物質ではないが、記憶や感情があるエネルギー体。これを前提に地球外生命体の存在を考えた場合、2つの種類が考えられる。一つはこの地球外生命体と同じ物質次元にいる地球外生命で、いわゆる肉体を持ったタイプ。もう一つは幽体のようにエネルギー体として存在する地球外生命。この場合、幽霊のように形があったり、ただアメーバのように漂う存在なども考えられる。この宇宙も幽界も同じ法則で成り立っているので、地球外生命体にも黄金比や渦模様、2極性、作用・反作用の法則などの要素が見られることになる。目的も人間と同じで自我を軽やかにし、意識という根源に返っていくこと。
幽体場では移動というよりも、思えばその場所に位置しているという感じになり、人間からすれば瞬間移動に見える。そして心で念じれば物を自由に作り出すこともできる。こういうテレビゲームのような世界では、見た目も自由に変えられることになる。だから人間のような姿の地球外生命体も入れば、SF映画の地球外生命体のような変わった姿がいてもおかしくない。結局どの地球外生命体も、幽体というエネルギー的存在が土台ということになる。
インターネットやビデオカメラが発展した時代には、地球上でUFOが目撃され、ビデオ録画される例も増え、未確認空中現象UAPという呼び方もされている。CGの精度も上がっているのでイタズラ動画も見られるが、米国国防総省が公式にネットで動画を公開している。
UFO目撃情報は何千と報告されているが、それがUFOや地球外生命体と断定するレベルの現れ方をしない。むしろ信じる信じないは、その人の柔軟性に委ねられるような現れ方とも言える。UFOほどの高度な技術があればすぐに地球を征服もできるが、それをするわけでもない。
こういったことを人間の自我という観点で見た時に、地球外生命体が本格的に地球人と交流するタイミングが来るなら、それは人間が地球上の基本的な社会問題を解決し、自然環境と調和した生活スタイルを築いた時。もし今各国政府が地球外生命体と交流すれば、政治家はUFOの技術などを取り入れ地球の科学を発展させようとし、それでさらに金儲けを考える。そして戦争も起こるし、やがては火星など他の星まで行って、そこの資源が無くなるまで奪い合い、それを金儲けの道具にする。地球環境が悪化の一途を辿る状況から見ても、人間の築いた文明は破壊的であり、それが卒業できるまでは地球外生命体が本格的に交流しても結果が見えている。
親が子供の宿題をしないのは、それが子供の成長のためにならないからで、子供の宿題は子供がこなさなければならない。地球の問題も地球人が解決しなければ成長がない。地球外生命体が助ければ、人間はいつまでも依存する状態になる。少なくともUFO動画が多数見られるようになったのは、干渉とまではいかない非干渉の範囲での地球外生命体による啓蒙活動であり、柔軟性の高い人からそれを認識し始め、その人数が増えていくことで、徐々にそれが常識に近づくようにしているためとも考えられる。それはやがてティッピングポイントを迎えるための布石。
意識という共通の根源やエネルギーの法則があるので、地球外生命体も源を同じとする家族と言える。つまり基本的には人間にとって仲間。先輩が後輩に教えたり支援するように、先に進化した地球外生命体が地球にやってきて支援しているとも考えられる。また精神的に進化した生命にとって、他者の成長を手助けすることが喜びでもある。
まとめ
ここまで見てきた通り、この宇宙には少なくとも次の法則が見られる。
作用・反作用の法則
相転移とティッピングポイント
S字カーブ
エネルギー保存の法則
黄金比の曲線、渦模様、ドーナツ型、2極の法則
フラクタル構造
共鳴・共振
引力・反発
エントロピー増大の法則
観察者効果
量子場
ここまでの話は科学的に証明されている現象に証明されていない現象を加えて、宇宙の構造の理解しようとした思考実験的モデルである。
この世の構造と法則
著者 : 久保田 啓敬
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