第2章3 都市国家と貨幣の始まり:文明の繁栄と衰退のパターン

 

貨幣制度が存在しなかったインカ帝国


 貨幣があると都市化が進み、貧富の差が広がる一方となる。ではインカ帝国のような貨幣が存在しない社会システムの統治方法はどうだったか。インカ帝国は、貨幣を使わずに国家主導で社会全体を運営するという特異で高度な仕組みを持っていた。これは歴史上最大規模の貨幣を用いなかった国家。

インカ帝国の規模と特徴

項目

内容

成立時期

15世紀中頃(1438年頃〜1533年)

最大版図

約200万平方キロ(南米のペルー、ボリビア、エクアドル、チリ、アルゼンチン北部、コロンビア南部)

人口

推定600万~1,200万人(時期による)

貨幣制度

貨幣を用いず、全てを物資の再分配と労働奉仕で運営

経済の基盤

自給自足+国家主導の倉庫、再分配経済+ミタ制度(労働税)


なぜ貨幣なしで機能したのか

要因

説明

中央集権的統治

スパイ制度・道路網・記録媒体(キープ)により、国家が広範囲を統制できた。

物資の再分配

各地で生産された穀物・衣類・道具を国が巨大倉庫で保管・管理。

ミタ制度

各人・共同体が持ち回りで道路建設・農業・兵役などの労働を提供し、その代わり国家が生活を保障。

アイユ制度

共同体内の相互扶助システム。アイユという血縁共同体による土地共有制で、個人の土地私有がない。

双分制

(そうぶんせい)

1グループに対等な首長が二人いる形態。その下にも様々な組織がつらなるが、そこにもそれぞれ首長が2人いる。

市場経済がなかった

市場や商人階級が存在せず、交換は国家または共同体単位。


「インカ帝国の仕組みが機能した面」
 インカ帝国には貨幣の流通がなかった。代わりに、すべての財や労働は国家が管理・配分する体制。経済は、労働と物資の再分配によって成立していた。また税の一種でミタという労働義務を課す制度があった。成人男性は一定期間、国のために働く義務があった。例えば道路・橋の建設、農地の整備、神殿建築、軍務など。その報酬は貨幣ではなく、衣食住の保障や国家による支給物資で支えられた。そのため全国に数千のコルカと呼ばれる巨大な国家倉庫を整備。そこに穀物(トウモロコシ、キヌアなど)、衣服(アルパカ毛など)、武器、農具、塩、薬草などを保管していた。そして干ばつや災害時には、国家が備蓄を各地に配給する。これにより、飢餓や路上生活者が存在しない社会が実現していた。

 インカ社会の基礎単位は、血縁や地縁に基づいた共同体アイユだった。土地は国家が所有し、共同体ごとに用途別に分配された。例えば太陽神殿の土地(国家宗教)、インカ皇帝の土地(国家運営)、農民の土地(自給用)のように。そこで各アイユが協力し、互いの農作業を助け合う伝統も継続された。
 その中で老人・障害者・孤児には労働義務が免除され、共同体が養った。国家主導で建築・農業・工芸が行われ、失業という概念が存在せず、犯罪や強盗の発生率が極めて低かったとされる。
 強固な中央集権は一方で柔軟な現地統治も併存し、地域ごとの事情をある程度反映できた。

 またインカ帝国の双分制(そうぶんせい)では、国全体をハナン(上)とフリン(下)の2つに分割。さらにそれぞれを2つに分割して、ハナン→2つの地域、フリン→2つの地域の計4つの地域に分ける。さらにそれぞれ2つに分割して8地域にする。また8地域それぞれを2つに分割して16地域にする。こうして2で割り続ける国家システムをとった。これは上下関係ではなく対等な2つで、国→地方→村まで一貫して2分割。さらに各レベルに2人の首長を置く。2人の首長の権限に若干の差はあるが、決してリーダーとサブリーダーではない。こうしてアイユ内の地域や組織も二つに分け、それぞれに首長をおき、全体として首長が二人いる双分制(そうぶんせい)が行われた。
 これにより1人に権力が集中することを防ぎ、意思決定における相互チェック機能が働き、独裁や専制を構造的に回避した。

 また2人の首長が協議することで即座の決定を避け、時間をかけて議論を継続。より慎重で包括的な判断が行われ、異なる視点からの検討が可能となり、コミュニティ全体の合意を得やすかった。これにより対立する利害を調整する仲裁機能や共同体の結束力が向上した。 また1人の首長が病気・死亡・不在でも統治が継続でき、後継者争いも回避でき世代交代がスムーズだった。これは権力の集中を避けながら効率的な統治を実現する仕組みだった。


 こういったインカ帝国は固有の文字を持たなかったので、結縄(けつじょう)という縄の結び目で人口・労働・物資を記録していた。これはキープと呼ばれ、キープカマヨクという専門の官僚が数万人規模で情報を管理を行っていた。こういった統治は中央集権的でありながら、現地レベルでは柔軟な対応ができた。

 結果として貨幣なしで物資と労働が流通し、生活の安定と格差の少なさが保たれた。そして格差・飢餓・失業・浮浪(ふろう)がほぼ皆無という希少な文明となった。ただ中央権力が非常に強く、労働の強制性が高い社会でもあった。


「環境負荷が低かった」
 インカ帝国の環境負荷が低かった理由は、その自然と調和した循環型社会の仕組みにある。
⚫︎アンデネスという急斜面を利用した階段状の畑で土壌流出を防ぎ、水はけと日当たりを最適化。耕作地を拡大しながら、山岳地帯の生態系を破壊しなかった。
⚫︎標高差を活用し、キヌア・ジャガイモ・トウモロコシなどの多品種を地域ごとに適応栽培。単一作物の大規模農場と違い、土壌疲弊や病害リスクが低かった。
⚫︎リャマ・アルパカなどの家畜は荷運び・毛・肉として利用され、過剰放牧を避ける管理が行われた。そのフンは肥料として再利用され、完全な資源循環が実現。
⚫︎国家が全生産物を管理し、必要以上の収穫を強制しなかった。市場経済がないため、利益追求のための過剰開墾・乱獲も発生せず。 コルカ(倉庫)に備蓄することで、不作時の緊急支援が可能になった。そして無駄な備蓄競争もなかった。
⚫︎ミタ制度で労働力を灌漑整備や治水など公共事業に集中投入。 それにより洪水・土砂崩れなど自然災害への予防的整備が行われ、環境破壊の後始末が少なかった。

「インカ帝国の問題点・限界」
 インカ帝国は完璧な社会だったわけではなく、問題点・限界もあった。各地の統治は、皇帝(サパ・インカ)を頂点とするピラミッド型官僚体制で動いていた。国家があらゆる資源・労働・土地を管理しており、中央集権が非常に強固。これは統治が効率的である反面、自由な経済活動・地域の自律性が極めて制限された。

 他にも、インカ皇帝を太陽神の子としての神格化と国家宗教により、信仰や文化は統制された。被征服民は、自らの宗教・風習を捨て、インカ帝国のケチュア語や制度に従うことを求められた。従わない民族や反乱の兆候があった集団は強制移住(ミトマク制度)により分断された。

 そして貨幣や市場が存在せず、経済活動が国家によって一元管理されていたため、商業・金融の動機が乏しかった。高度な石造建築(マチュピチュ)、灌漑システム、寒冷地農業(チヌア栽培)など精緻な農業や土木技術は発達したが、車輪や鉄器、書記言語などが未発達だった。ただこれは異なる方向性の発達だったと言える。

 インカ帝国の仕組みは持続可能性と格差の少なさという点では学ぶべき部分が多い。ただここでは自由や多様性が犠牲となった。


古代スパルタ(ギリシャ)


 紀元前9世紀頃~紀元前4世紀後半に存在した軍事国家スパルタは、市民のほとんどが国家からの配給や物々交換で生活していたため、貨幣の使用頻度はかなり低くかった。生産労働はすべてヘイロタイという被征服民の農奴に近い奴隷に担わせ、スパルタの男性市民は戦いと訓練に専念していた国。貨幣の使用は対外取引や例外的な場合に限られた。そのためオベロスと呼ばれる鉄の棒を使用しており、これは貨幣というより価値尺度だった。また金銀貨を完全に排除していたわけではなく、対外取引では使用していた。食事・住居・服装はすべてにおいて質素。日本語の表現で、厳しく教育する時に使うスパルタの語源でもある。



古代スパルタの特徴

項目

特徴内容

場所

ギリシャ南部のペロポネソス半島、ラコニア地方

軍事国家

男性市民全員が兵士。軍事力維持が国家最優先。

教育制度

アゴゲーという教育制度により、7歳から厳格な軍事教育。忍耐・服従重視。個人主義は否定。

貨幣制度

金銀貨の使用を廃止し、鉄製価値尺度を使用。

実質的に商業・貨幣経済を抑制した反商業社会。給料はなし。

生活様式

住居・衣服・食事は簡素。贅沢禁止。

社会構造

市民は軍人階級。多数のヘイロタイ(被征服民で奴隷)が市民のための生産労働を担う。

人口

市民(スパルタ人)はピーク時で約8,000~10,000人程度。

ヘイロタイの人口はスパルタ市民の数倍から10倍程度いたとされる。

統治体制

2人の王と長老会(ゲルーシア)による寡頭制(かとうせい)。民会(アペラ)は限定的。

存続年数

紀元前9世紀頃~紀元前4世紀後半(約500~600年)。都市国家スパルタ自体はローマ時代まで存続していた。

崩壊理由

・市民人口の激減。

・ヘイロタイの反乱や社会不安。

・テーベとの戦い(レウクトラの戦い、紀元前371年)での壊滅的敗北。

・マケドニア(フィリッポス2世・アレクサンドロス大王)の圧力による従属化(紀元前338年以降)。


 貨幣に依存しなかったスパルタではあったが、戦士としてふさわしい少数だけを市民とする制度や過酷な生活・軍事・少子化によって人口減少が進行し、社会内部の不安定化が強まる。それにより軍事力低下が加速し、外敵の侵攻に対応できなくなった。




ローマ帝国


 貨幣がなかったインカ帝国や貨幣を抑制したスパルタとは対照的に、積極的な貨幣経済の発展を推進した文明がローマ帝国。

 ローマ帝国は紀元前753年~西ローマ帝国滅亡(476年)まで約1200年、東ローマ帝国滅亡(1453年)まで含め約2200年間存続した古代最大の帝国。最盛期(100年代)には地中海世界全体とヨーロッパの大部分を支配し、人口約5000万~6500万人を擁した巨大国家。ローマ帝国は史上初めて帝国規模での統一貨幣制度を確立し、貨幣を通じた経済統合と政治的権威の象徴化を実現した。

ローマ帝国の統治形態

統治形態

期間

権力構造

統治形態

特徴

拡張・安定化

王政

紀元前753年頃〜紀元前509年

王1人がほぼ全権掌握

王+助言する元老(貴族)

軍事・宗教・司法の権限集中

初期ローマ建国、都市統治

共和政

紀元前509年〜紀元前27年

執政官2名、法務官、財務官、護民官など + 元老院 + 民会

市民(貴族・平民)参加、選挙制度あり

権力分散・抑制、元老院による政策決定

征服戦争・同盟で地中海拡大

帝政

紀元前27年〜476年(西ローマ)/ 1453年(東ローマ)

皇帝の実質全権掌握

皇帝中心の官僚制・常備軍・法制度

初期は形式上共和制残すが、後期は完全な専制君主制

税制・道路・通貨・軍事制度で領土統治



ローマ帝国における統一通貨の導入は、社会・経済・政治に大きな影響をもたらす。

効果の分類

内容

経済的効果

商取引が全国規模で円滑化された- 異なる地域間での物価比較や税徴収が容易になった。

市場経済の発展を促進し、都市間の物流や貿易を活性化。

政治的効果

皇帝の権威を貨幣に刻印することで中央集権を象徴。

統一通貨によって帝国内の経済的統合を強化。

社会的効果

軍隊や官僚への給与支払いが統一され、忠誠心の維持に貢献。

税制の透明性が向上し、徴税効率が高まった。

文化・象徴的効果

通貨のデザイン(皇帝像や勝利のシンボルなど)が共通のアイデンティティ形成に寄与。


 235年〜284年の約50年間には、3世紀の危機と呼ばれる経済面でも深刻な混乱があった。これは単一の原因ではなく複合的要因によるもの。

ローマ帝国の3世紀の危機

背景要因

説明

政治的混乱

50年間で約26人の皇帝が即位し、大半が暗殺・戦死。内乱が続き、中央政府の統制力低下。地方統治も弱体化。

軍事的圧力

北方ゲルマン諸族や東方ササン朝など外敵の侵入・反乱が多発。戦費が急増。

経済基盤の脆弱化

農業生産性の低下、交易路の安全性悪化、地方経済の停滞と税収が減少、頻繁な戦争・防衛費増加で国家財政が圧迫される。

貨幣制度の崩壊

デナリウス銀貨の銀含有量98%→5%の減少による貨幣の価値低下で市場が混乱し、地域ごとに異なる貨幣や価値で取引されることが増える。

社会的不安定

物価上昇や経済不安で都市部・農村部の生活が困窮。奴隷・自由民の生産性低下も影響。社会不満・暴動が発生。

構造的要因

帝国領土の広大化と補給・防衛・行政コストの増大もあり、統治・防衛・税収回収の効率が低下し、中央集権の維持が困難に。


 こうしてお金の価値が低下し、物価が高騰するインフレは、格差拡大→社会不安→抗議活動・暴動と続いていく。インフレは2020年代にも起こっており、貨幣社会とは切れない関係。

ローマ帝国と2020年代のインフレの例

時代・地域

インフレの発生原因

経済への影響

社会への影響

古代ローマ(3世紀)

軍事費・行政費調達のため、銀貨の銀含有量を大幅に減らして大量発行(銀含有量98%→5%)。

通貨価値が大幅低下(20分の1)、市場は額面より重量で取引。物価が数十倍上昇、現物経済へ回帰。

現金依存の都市住民が没落、土地保有者は影響軽微。各地で暴動、統治力弱体化。

アルゼンチン

(2001)

ペソ=ドル固定制の維持が困難 → 自国通貨ペソの価値下落 → 外資流出・経済危機 → 財政赤字拡大。

ペソ75%下落、預金引き出し制限、失業率21%、GDP28%縮小。

中間層の生活水準大幅低下、「鍋叩き抗議」など大規模デモ、2週間で大統領5人交代。

ジンバブエ

(2000-2008)

白人農場強制収用による農業生産70%減、外貨不足、紙幣乱発。

年率2億%超のハイパーインフレ、自国通貨放棄、米ドルへ移行。

食料不足・社会基盤崩壊、人口の3分の1が国外流出など。

ベネズエラ

(2013-2020)

石油価格暴落、財政赤字補填のため紙幣増発。

年率100万%超のハイパーインフレ、GDP75%縮小、石油生産90%減。

食料・医薬品不足、人道危機、国民の20%(約600万人)が国外流出。

スリランカ

(2022)

コロナ禍で観光収入消失、外貨不足、輸入困難。

燃料・食料・医薬品不足、インフレ60%超、ルピー80%下落。

民衆蜂起、官邸占拠、ラジャパクサ大統領辞任・国外逃亡。


 ローマ帝国の貨幣危機と2020年代の金融問題には類似した構造が見られる。インフレ含め他にも次のような共通点がある。

ローマ帝国と2020年代の共通点

項目

ローマ帝国(235-284年)

世界経済(2020年代)

共通点

財政負担

頻繁な戦争、国境防衛、官僚費用で財政が圧迫。

軍事費、社会保障、インフラ維持で国家財政が圧迫。

大規模国家の維持には常に財政負担が伴い、資金調達のプレッシャーがかかる。

格差の拡大

貨幣価値低下で都市住民の貯蓄・購買力が減少。土地保有者は安定。

インフレ・資産価格上昇で、金融資産保有者と現金依存層の差が拡大。

富裕層と貧困層の格差拡大が、社会不安の原因になる。

都市の脆弱性

都市部は食料・物資の輸入に依存。貿易ネットワークが寸断され、帝国各地、特に都市部で食料不足につながった。

2020年代の都市も、食料・エネルギー・水資源の供給に依存。例えば2021〜2022年の港湾停滞によるサプライチェーン混乱。

都市は自給自足できず、輸入・物流に依存している点が脆弱性となる。

社会不安・暴動

物価上昇や食料不足で暴動が発生。

ハイパーインフレや物資不足で、民衆の暴動やデモ。

経済危機は、直接的に社会不安や政治危機に結びつく。

中央集権の困難

広大な領土を効率的に統治するのが難しい。

設計がアメリカ、部品製造が韓国・日本、組み立てが中国のようなグローバル経済、インド・カナダ・ロシアなど多国籍国家で政策調整が複雑。

経済・政治の規模拡大は、統治効率低下を招く。


 2000年前のローマと2020年代の貨幣社会に起こる問題は、本質的に変わっていない。



◯インフレ

 古代中国もローマ帝国と類似し、財政難 → 紙幣(貨幣)過剰発行 → 物価上昇 → 社会不安 → 生活困窮→ 反乱を招いた。これは財政負担・戦争コストなどが直接的に物価を押し上げたため、コストプッシュ型インフレとなる。

中国各王朝のインフレ

王朝

期間

インフレの背景

宋朝

960~1279年

財政赤字補填のため世界初の政府発行紙幣「交子(こうし)」を大量発行。銅銭との価値乖離拡大、物価上昇。

元朝

1271~1368年

軍事費・行政費増大のため紙幣「交鈔(こうしょう)」を乱発。通貨価値下落、民衆不満増大。

明朝

1368~1644年

財政赤字のため紙幣「大明宝鈔(だいみんほうしょう)」を過剰発行。物価高騰により紙幣制度が破綻。

清朝

1644~1912年

アヘン戦争賠償金・太平天国の乱による財政悪化。各地で占領軍の交付する代用貨幣の軍票(ぐんぴょう)の乱発、通貨信頼低下。



 またまた中世イスラム世界やイタリア都市国家のインフレは、通貨の信用失墜ではなく、外部からの貴金属流入や経済活動の拡大による自然な物価上昇。「お金が増える速度 > モノが増える速度」になると必然的に物価が上がるのは、買う人がたくさんいるのでモノの値段が上がっても売れるため。
 また戦争費・都市開発など、国家財政の支出増も物価を押し上げる要因となる。戦争では武器、食料、馬、衣服などを大量に必要とし、都市開発では建材、労働力を大量に必要とする。つまり政府が大量購入者になって買う人がたくさんいる状態になるので、価格が上昇する。また戦争では兵士として動員される人が増える→働く人が減る→残った労働者の賃金上昇が起こり、都市開発では建設現場で働く人が必要→他の分野から労働者を引き抜く→全体的に賃金上昇が起こるため、ディマンド・プル型インフレとなる。

 中世イスラム世界やイタリア都市国家でも、物価上昇により都市民・農民の抗議や地方反乱、デモや暴動が発生した。


中世イスラム世界のインフレ

地域・王朝

期間(西暦)

インフレの背景

アッバース朝

750〜1258年

中央アジア・インド・アフリカからの金銀流入増加。都市・市場の発展により貨幣需要が増大。税収や軍事費の増加で物価上昇。

ファーティマ朝

909〜1171年

地中海貿易と紅海交易の活発化で貨幣流通量増加。エジプト国内の都市建設・軍事費増で物価上昇。

マムルーク朝

1250〜1517年

モンゴル侵攻後の復興期に金銀貨流入増加。都市・商業活動の拡大と軍事費負担で物価上昇。



イタリア都市国家のインフレ

都市国家

期間(西暦)

インフレの背景

フィレンツェ

1000〜1499年

金融業の発達により為替手形や銀行信用が拡大。戦争費用や都市建設により貨幣需要増加。1500年代にはアメリカからの貴金属流入で物価上昇。

ヴェネツィア

1100-1500年頃

海上貿易により大量の貴金属が流入。東方貿易の利益で経済活動活発化。オスマン帝国との戦争で軍事費増大、財政圧迫。


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